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長い日記・孤独をめぐるメモのようなもの

とにかく孤独な旅をしようと思った。

会社から夏季休暇を9月末までに取得するように迫られているが、予定がない。誰とどこに行くわけでもなく、ただ休みを取るだけでは虚しさを感じるに違いない。ならばいっそのこと、とびきり虚しい体験をして、それをネタにしてしまおうではないか、というのが表向きの理由。

ところが実際、理由の大半を占めるのは手に負えないほどに大きくなった孤独感だ。仕事をしているとき、友人と話しているとき、ランニングしているとき。どんなときもぴたりと密着して、離れようとしない。こいつをどうにかしたい気持ちがピークに達したのである。おい孤独感、お前はどうやったら俺のもとを離れるんだい?孤独感は次のように答えた。

「ボクはキミに密着したいワケじゃないぜ!それはキミの勘違いだ。むしろキミがボクに執着してるんだ。考えてみたまえ、キミはボクの存在を認知してはいたものの、真正面からしっかり向き合ってみたことはあっただろうか?つまみ食いするような味わい方ではいつまでも満足は得られない。孤独に満足、というのが変だと感じるなら”飽きる”と言い換えてもいいだろう。それにしても同じことだ。要するにキミはまだその段階に達していない。まずはしっかり孤独と向き合うんだ。孤独感が離れる・離れないはその先でキミが決めることさ。」

孤独感の言うことはもっともであった。わかったよロンリネス!俺といっしょに旅に出ようぜ!

いざ、鬼怒川

「怒」という漢字は本当に怒っているように見える。

さて、旅に出るといってもどこへ行ったものか。まず最初に思い浮かんだのは東北であった。かつてどハマりした朝ドラ「あまちゃん」のロケ地を巡りたい。しかし、旅程を調べるとバカみたいに遠いことがわかった。そして、"ロケ地を巡る"ということのほかに特に目的がない。本当にない。精神がワクワクにみなぎっているときならいざ知らず、ちょっとナイーブなときにそんな場所へ行って大丈夫だろうか?いや、なんかヤバそう。東北はまた今度だ。

じゃあ近場だと熱海?それとも箱根?と迷った末、鬼怒川温泉に行くことにした。特に行ってみたかったというわけでもないが、静かで温泉があって、心身を休めながらじっくり考え事をするには最適の場所ではないかと思った。それに、東京メトロ日比谷線が車内で執拗に訴求してくる栃木・日光という土地への興味はあった。東武特急に乗れば自宅から3時間とかからずたどり着くことができる。

「いざ、鬼怒川!」

やっと心が決まったとき、時刻はすでに13時を迎えようとしていた。遅すぎる出発。なんとなく人生の暗喩みたいだな、と思った。

君(カリカリ・虚しさ)をのせて

チーズが入ってるパンにハズレはない。

北千住駅に辿り着いてすぐ、旅のお供となる食事を探し求めた。”車内では何かを食べなければならない”というのはなんとも旅慣れていない発想のような気がした。目についたパン屋へ入り、カリカリチーズカレーパンとスイートポテトパン(なんじゃそりゃ)を購入。旅情のカケラもない選択。たいして食べたいわけでもないのに、”旅にはおそらく必要だから”という主体性に欠けた理由で購入してしまったことを少し後悔しながら、特急専用ホームへ移動する。そこは一般ホームから隔絶された空間だった。そしてどういうわけか、BGMとしてジブリのテーマを中心としたオルゴールメドレーが流れている(ちょうど、「君をのせて」が流れていた)。駅舎から垣間見える青空は、15時にしては日が傾いているように感じた。なんだろうこの寂しさは……。

俺のまわりだけ日が暮れた?

いよいよこれから出発というタイミングで、思わず帰りたくなってしまう。本命でもなんでもない大学を仕方なく受験しに行った18の頃を思い出した。たまらず、先ほど購入したカリカリチーズカレーパンにかじりつく。なるほど、たしかに衣のまぶされた表面がカリカリである。寂しさやら虚しさやらにも、衣をまぶして揚げたらカリッとするのだろうか?

人身事故か何かの影響で14分ほど遅れて特急電車が入線し、くたびれ顔をした客たちが一斉に乗車した。

特急リバティ

かねてより「お〜いお茶」のパリピ版があるなら「ウェイ★テキーラ!」であるとする説を提唱しているが、賛同は得られない。

気づけば景色は移ろい、特急リバティの車窓は利根川沿いの豊かな緑を映し出していた。社会の授業で耳にし、地図帳でその位置関係を学習した利根川は、想像よりも小規模に感じた。下流の方に行けばもっと大きいのだろうか?それにしても特急リバティ、いい名前だ。

(束縛されない)自由,解放,独立;選択の自由

自分は何の束縛から逃れ、解放され、何処から独立しようとしているのか。自分だけではない。きっとこの電車に乗り込んだほかの人たちもみな、そのような葛藤を抱えているのだろう。ふと通路を挟んで反対側の席に目をやると、40代くらいの女性が静かにドトールのミラノサンド(たぶん)を食していた。カリカリチーズカレーパンとドトールのミラノサンド。大きな括りで見ればどちらもパンではあるが、やはりそこに対しては明確に選好の差というものが存在する。私がカリカリチーズカレーパンを選んだように、彼女はまた自身の意思でミラノサンドを選んだのだ。

ほんと、最近なんだかいまいちでねぇ

ところで、自由には責任が伴う。正直にいうとミラノサンドが羨ましくなってしまったが、それでも自分はカリカリチーズカレーパンを選んだ。その選択によって、責任として生じた”ミラノサンドを選ばなかった後悔”を引き受けねばなるまい。

俺はなにを考えているんだ。論はどこにも結ばれなかったが、そんな我々を尻目に特急リバティはゆっくりと鬼怒川温泉駅へすべり込んだ ─────

静かな夜でも過ごそうと

歓迎もせずに沈むとはなにごとか!太陽!

駅に到着したとき、すでに時刻は17時を過ぎていた。そのせいだろうか?街にはほとんど人の姿が見えない。山に囲まれた穏やかな温泉地はなんだかひっそりしており、文字通り影の中を歩くような心細さを感じる。空はまだ明るいのに、まるで薄暮のような雰囲気だ。

「まあ寂しがりにきたようなもんだし、いいか」

と、ここまで来たらなんだか楽しくなってきたのも事実である。もういっそほとんど人間の存在を感知することない、静かな夜を過ごそう。フロントにてチェックインをすませ、館内およびサービスの案内をひととおり受ける。夕食は時間制になっており、18時よりバイキング形式で実施するから2階の会場まで行くように、とのことだった。じゃあそれまでは部屋で読書でもしよう、と思いながら古びた館内を移動していると、何かがおかしいことに気づく。とにかく人が多いのだ。

薄目でみると綺麗な部屋だった。

あくまでスマートに、冷静に。

時間になり夕食会場に赴いたとき、ちょっとだけ震えた。会場は想像の4倍くらい広く、その空間を埋め尽くすようにして想像の20倍の人が賑やかに、楽しそうに食事を繰り広げていたのである。見た目年齢20代後半の男性が1人で来ている例は少なくとも肉眼では確認されなかった。待て、怯んではダメだ。堂々としよう。まず第一に、他人はたいしてこちらに興味を持ってはいない。周囲の状況に無関心である。第二に、怯むと人は挙動不審になり、かえって目立ってしまう。あくまでスマートに、冷静に。きわめて自然な所作で、動揺など1ミリも感じさせないエレガントな盛り付けを……

なぜチャーハンをおかずとして設定したのか

できなかった。流されるままに列に従い、とにかく目についた品でマスを埋めることだけを意識した結果、すでに不安定だった心も、皿も、さらに混迷を深めてしまった。絶妙にニュアンスの異なる茶色で彩られたパレットは、文房具に凝り始めた大人が奮発して購入する絵の具や高級色鉛筆を思わせた。茶色を使い分ける場面なんてどこにあるのだ?いやいや、今ここにあるのだ。頼む、誰でもいいから話しかけてくれ。「いまの心情を色で表すと〜?」と聞け。教えてやるよ、悲しい気持ちがブルーなら、混乱の色はブラウンなんだ。

天ぷらはうまかった。

ヤケクソで醤油ラーメンと天ぷらにも手を出した。時を戻して、あの瞬間の自分に忠告してもいいかな?ドーミーインの夜鳴きそばをイメージして食べるとがっかりするぜ。

こういう場所でしか見かけないムースっぽいケーキが好きだ。

途中から、斜め前にいたおじちゃん(単独)の視線を感じる。あなたもひとりなんですね!我々は心で握手を交わし、またそれぞれの持ち場について黙々と食事を続けた。するとふと、遠藤周作が『わたしが・棄てた・女』で"孤独に音がある"と書いたことを思い出した。それは確か、眠れない夜に自分の心臓や、窓の外で風に揺れる木々の音だけが聞こえることを描写したものだったと思う。実に味わい深く的確な表現だ。そして、無言で食事する自分を取り巻く周囲の談笑、賑やかに食器がぶつかるこの音もまた、孤独の音なのではないか、などと思った。

もう大人なので腹八分目でストップした。

食後は部屋で本を読んだり、丹念に温泉を楽しんで過ごす。最近は3時近くにならないと眠れないことが多かったが、1時半くらいには寝た気がする。温泉は偉大だ。

揺れるアグレッシブなカメラマン

朝食前に散歩しようと思っていたものの、気持ちよく眠り過ぎて朝食の時間がすでに始まっていた。まずい、現在の時刻は7時50分。9時までに朝食バイキングと朝風呂をどちらも済ませないといけない。

ふだん朝食は食べないことも多い

人は焦ると判断が鈍る。寝起きの場合はなおさらだ。パンと干物を交互に食べながら「これはおかしいことだな」と気づく。在宅勤務時には朝食を食べないことも多い私であるが、気づきと切り替えの時間としての朝食の有用性を再認識したしだいであった。さあ、朝風呂で身支度を整えたらさっさと東京に戻ってしまおう。

吊り橋効果って1人でいるときはどのように作用するんですかね?

とはいえすぐに帰るのも味気ないので、近くの吊り橋を渡ってみる。すごく景色がいいし、めちゃくちゃ揺れる。怖すぎて思わず誰かと話したくなり、おそらく両親と同世代であろうご夫婦に「写真撮りましょうか?」と提案した。するとお返しに、ということでこちらも撮ってもらえることに。全然そんな想定をしていなかったため、動揺する。まあひとりで写ってるのもそれはそれで面白いか。

「こちら!」としている様子

けっこういい写真だ。ここには掲載しないが、アグレッシブにさまざまな画角を検討してくださる方だった。我ながらいい人に話しかけたものである。ありがとうございました!

プリンソフトとやらを食べて帰路につくこととする。

ハートのやつで掬って食べるのが良さそう。よりによって一番最初に食べちゃったぜ。

つなげて、くみたてる

そんなわけで東京に戻ってきて、今に至る。孤独感は消えたのか?で言うと、全然消えていない。むしろ、自身が孤独であることをより一層実感するだけの旅だった。というか、自分で想像していた以上に”他者を意識して過ごしている自分”を見てしまって、げんなりした。孤独というよりも、軸がない・精神の拠り所がない、といったほうが適切なのかもしれない。

旅先から帰ってきてこんなにぐったりするのも初めてだった。でも、「どこかに逃げようとしても、正面から向き合ってみたとしても問題って簡単には消えないんだな」ということはわかった。それはそうだ。1日2日で消えるようなものなら、わざわざこのように悩んだりはしない。それでも、こういうのはやってみて実感を伴うことで初めて理解できる類の学びだし、心の底から疲れたけど行ってよかった。

それから、書いて整理するという行為は改めて素晴らしいと思った。書くことは思考に順序をつけ、原因と結果をつなげていくことだし、それから自分なりの解釈や計画を組み立てていく行為でもある。人はこのようにして少しずつ成長していくものなのかもしれない。時間がかかってもどかしいですけどね。ガンバレ

(おわり)

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