KYOTO EXPERIMENT2024 観劇メモ① [Echoes Now]
せっかく今年はいろいろ見ているので、メモを残してみようかと(とはいえ、見て感じたことから想像を広げているだけだけど)。なぜか本プログラムではなく、サブ企画のプログラムから。次世代のキュレーターとアーティストをショーケース形式で紹介する企画とのこと。
3本立てでした。
福井裕孝『インテリア』[演劇]
☞ 区切りのない空間を、能・狂言みたいに直角に曲がって歩く演出とか、脱いだスリッパや靴を揃える演出で、各部屋の境目がくっきりと見えてくる感が面白かった。(映画『ドッグヴィル』久々に見たくなった)。玄関の入り口の「のれん」の高さの設置位置が個人的にとても絶妙で、どちらかといえば舞台演出にあれやこれや見惚れてしまい。
髙橋凜『CHASHITSU』[パフォーマンス]
☞ アーティストのドローイングシリーズ「Emaki」から複数枚を選び取り、その平面イメージを空間で展開する作品。7名のパフォーマーのなかでも、“朝のしたくをするソックス”(この発想が好き)、コイ、とんぼが特にかっこよかった。メランコリックな唄は音響かと思ったら、ソックスの人が唄っていて、これもよかった。
1作品めから2作品めの舞台転換が、目の前で行われていく感じも面白かった。
黒田大スケ『学校のゆうれい』[パフォーマンス]
☞ トリのこの作品、すごく好きだった。かつて小学校だった京都芸術センター(旧明倫小学校)を舞台に、 戦争で亡くなった叔母さんの(魂が乗り移った日本人形)のモノローグで構成される映像&インスタレーション作品。始終コミカルな様子で進むからこそ、後半のことばの重みが引き立って、胸に染みた。
素敵だなと思った演出は、真っ暗な舞台に入る途中で、テーブルに置かれている古い焼きものや土器のようなかけらを1つ手にとって、「それを手に持ちながら作品を鑑賞ください」というアナウンス(そのかけらは持ち帰れる)。そのかけらが、アーティストにとってどんな存在なのかはわからないのだけど、「古いもの」を握りしめて観ることで、人形に魂が乗り移っているという設定が身近に(リアルに)感じられる気がした(映像自体はかなりシュールなのだけど、それを超えるリアルさがあって)。
余談だが、あるアーティストの知人が、京都芸術センターの客席で「兵隊さん(の幽霊)が席に座っていた」という話をしていたことがあった。もう10年以上前のはなしだ。どの部屋かは聞かなかったのだけど、そのときから直感的にその部屋は、今回の会場である「フリースペース」だと思っている。正確には「フリースペースだといいな」なと思っているだけなのだが(円形劇場のようなこの空間に座っている兵隊さんの姿が、なぜかしっくりイメージできたのだ。身勝手な想像で申し訳ないのだが、この部屋にいる幽霊ならこの演目をみていただろうか)。
「もの」つながりで、余談をもうひとつ。今年実家に帰ったときに、亡き祖父(母方の父)に生前見せてもらった「鉄砲玉」の話になった。南方に戦争にいった祖父が腕に被弾し、腕のなかに弾をとどめたまま帰国し、手術で摘出してもらったものだ。手が器用だった祖父はその後、この鉄砲玉に穴を開けてある意味「お守り」のように扱い、後生大切に保管していた。
この弾が奇跡的な位置にとどまったことで、その後も何不自由なく(と思っていたのは自分だけかもしれないが)暮らし、家族を養い、多くの人に愛された祖父。この弾をなぜこんな風に残したのか、祖父の思いをもう知ることはできないが、仏壇の引き出しに仕舞われていた弾を包む紙の折線を見るだけでも、祖父の几帳面な性格と、奇跡的に助かったことへの祈りのような気持ちが伝わってくる気がする。
それにしても弾丸てこんなにも鋭く、重そうなものだとは。こんなものが今この瞬間にパレスチナ、ウクライナなど、世界で飛び交っているとは。考えるだけで胸が痛い。
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