大丈夫、大人は 「楽しいぞ」
たまたまこの動画が流れてきたので見ていたのですがとても気味が悪い歌詞があったので少し書きたいと思います。
September調子はどうだい?
ちゃんと学校いってるかい?
あたしはね、ぶっちゃけ学校とか
クソくらえだと思ってたよ
明日学校に行きたくないと思ったキミへ
大丈夫、大人は 「楽しいぞ」
サビの歌詞を引用させてもらいました。
「学校とかクソくらえだと思ってたよ」に関しては個人の意見以上の何でもないので良いですし、夏休み明けだったりに様々な要因で学校にいけないのも良いと思います。
問題は『大丈夫、大人は 「楽しいぞ」』です。学生生活を楽しめなかったやつは大人になっても楽しめない等と的外れなことを言う気はありません。大人としての生活の方が楽しいと感じる人もいると思います。
問題は「楽しいぞ」という言葉選びです。
あたかも大人をわかったかのように、子供に勇気を与えるかのようにこれを言っているというのが衝撃でした。
そして、大人になるというのが摂理であると今一度確認させてそれを恰も『良い』ことかのように言っているのには気が引けます。
大人に成りたいと思うことによって逆説的に子供である
という思考が私は大好きです。これは唯一残された子供であり続ける方法だからです。そしてこれ無しでは感傷マゾに蝕まれて生きていくことも出来ません。本質的には御曹司のように純粋に『誰よりも中学生でありたいと思う』ことが自らを中学生たらしめるとは思います。しかし私にその手は残されておらず、そうした瞬間にそこに在るのは『子供に憧れる大人』です。またこの発想も大人である証左であり、やはり最初にあげた手法でのみ子供で在れる訳です。
最初にあげた歌に戻ります。
あの歌の作詞者はこういったことを考えて作詞しているでしょうか?
何を考えて
大丈夫、大人は 「楽しいぞ」
などと書いたのでしょうか。
あまりにも無責任で投げやりに思えます。
ある意味で不登校というのは退廃的な美しい存在であるとも言えます。
環境があり、可能性もあるにも関わらず青春コンプレックスを抱えられる唯一の存在な訳です。
また、新たなコンプレックスを解消し、また生み出せる可能性さえも秘めています。
それを大人になったら良くなると切り捨てるのは思考の放棄の要求、画一化でしかありません。
1984年の世界観は好きですが、ニュースピークに侵されていく世界をみるのは嫌いです。
とはいえ、主観で書かれた歌詞に主観で批判するのもどうかとは思いますが、俯瞰する事がいつでも美しいわけではないと感じてもらえたら幸いです。
この世界に意識はいくつあるのかさっぱり不明な以上、主観が最も確かで理解に容易いと私は思います。