玉砂利を踏んで、自分に還る
神社を参拝すると、大抵の神社には、鳥居をくぐった後に手水舎があるかと思います。
ここで、柄杓を使って両手と、口を清めますよね。
よし、手と口は清められた。では、足は?・・・(・∀・)
(タイトルでネタバレしていますが)そうです!参道の玉砂利を踏んで歩いてきたことで、実はすでに、足は清められていたのです^ ^
玉砂利の“玉”には「魂」や「御霊」という意と、「玉のような」という表現でも使われる、美しさ・宝石・大切な物、という意があり、
“砂利”の方は、本来はさざれ石(細石)のことで、
つまり玉砂利は、ミタマの籠もった、美しい宝石のような小さい石、ということになります。
そのような清らかな石を踏むことで、参拝者がしだいに身を清め、最高の状態で祈ることができるよう配慮されているのだそうです。
実際に、玉砂利は海水などで洗い清められたものが敷かれていると聞きます。
玉砂利を踏んだときの音もまた、なんとも小気味良いですよね。
ところで唐突ですが、皆さんはなぜ、神社を参拝するのでしょうか?
きっとそれは一人ひとり違って、どうしても叶えたいことをお願いする人もいれば、何となくご利益がありそうだから行く人もいるでしょうし、決意宣言をする人もいますね。
参拝する理由や目的を特に縛られず、正解がないのも、器の大きな日本文化の面白くて良いところだな〜と私は思います。
ちなみに私にとって神社参拝は、本来の自分に還るため、のものだと思っています。
私はわりと周りに影響を受けやすいたちで、それを自覚しているので、普段から、洋服を買うときは店員さんの接客がないところを選んだり、
今の部屋に越してきた二年前ほど前からはテレビを置かず、必要な情報は、自分から取りに行くようにしています。
それでもやっぱり、毎日スマホは使いますし、YouTubeやNetflixも観たりしますし、当然日々の生活の中で人と関わることもありますから、
「本来の自分ではない」価値観や感情が、子どもの頃に草むらに入るといつのまにか背中に着いていた“ひっつきむし”のように、知らないうちに、着いてしまっているのだと思います。
そういったものを落としてくれるのが、手水舎や玉砂利の役割なのかな〜と、私は勝手に解釈しています。
何かに迷っている時、実は答えは心の中にある、とよく言ったりしますが、私はそれは、本当のような気がしています。
迷うのは、ひっつきむしのしわざかなと^_^
手水舎や玉砂利の力を借りつつ、本来の自分に立ち戻って拝殿に立ったとき、拝殿の奥に祀られた鏡には、自分自身の姿が映ります。
自分は本当は何がしたいのか、どう感じているのか、そしてどうありたいのか。
という再確認を、その神社の神様に見守って頂く、というのが、私の神社参拝のイメージです。
見守ってもらうって、心強いのと同時に、ちょっと背筋が伸びる感じもします。私事が、公事になるような感覚です。
婚姻届にも、確か証人のサインが要りますよね?多分そんな感じです(^^)
今日はいつにも増して、とりとめのない文章になってしまいました。。。
次に神社参拝されるときはぜひ、皆さんの参拝の目的に合わせて、手水舎、そして玉砂利の、清らかなパワーを意識して使ってみてください^ - ^