正体見たり
2年半前から、歯の矯正をしている。
毎月一回、矯正装置の調整をしてもらうのだけれど、歯並びもようやく整ってきて、待ち焦がれていた、装置が外れるその日を、私は楽しみにしていた。
楽しみにしていた。
つもり、だった。
先月の調整日のこと。先生の診察前に、歯並びを見た衛生士さんから、「今日、装置外せるかもしれませんね」と言われた私は、
思わず「え!?」と声を出してしまった。
そしてすぐ、今度は自分の反応に、心の中で「え!?」と叫んでいた。
なぜなら、最初の「え!?」には、装置が外れる嬉しさではなく、明らかに、装置を外すことへの拒絶の気持ちがこもっていたから。
いきなり降って湧いた、説明のつかない感情に戸惑いを覚えつつ、その後先生の診察を受けると、まだ一か所、かすかに隙間が残っているとのこと。結局、装置を外すのは次回以降に持ち越しとなった。
診察後、待合室のソファで、心底ほっとしている自分がいた。
家路につきながら、いったい何故こんな気持ちになったのかを考えていた。
しかし、考えれば考えるほど、装置が外れることにはメリットしかなく、この感情の説明がつかない。
確かに、矯正歯科の先生やスタッフの方々がとても優秀で、想像していた以上に快適に、この2年半を過ごすことができたという事実はあった。
けれどもやはり、装置を付けていると歯磨きに時間も手間も掛かるし、矯正前は何も気にせずバリバリ食べていた固いものにも、かなり気を遣う。
寝不足が続いたり体調不良になると、装置が当たる所が口内炎になったりして、調整日に「痛そうですね~」と薬を塗ってもらうことも多々あった。
装置を外したら、それらからも解放されるのだ。
結局、装置が外れることのデメリットは一つも見つけられず、納得のいく答えは出なかった。
「単に心の準備ができていなかった」のだろうと、あいまいに結論付けて、頭の中からこのトピックを切り上げてしまった自分がいた。
2週間ほど経ち、いつも通り、仕事を終えて歩いて家に向かっていると、ふと、あの時の感情に対する答えのようなものが浮かんできた。
私は、素の自分と向き合うのが怖いんだ。そしてそれを世の中にさらすことは、もっと怖いんだ、と。
矯正の装置を付けた自分の姿は、最初こそ慣れない気恥ずかしさがあったものの、すぐにそれが当たり前となり、今はもう何の抵抗もない。
でもそれは、実は自分の中で「これは仮の姿」と思っていたからなのではないだろうか。
仮の姿であれば、他の人、そして自分自身が、それをどう思おうと、あくまで仮の姿の自分に向けられたもので、素の自分は何も傷つかない。ダメージゼロだ。
でも、仮の姿という盾を失ってしまったら。
何の言い訳もせず素の自分で生きていく、ということに対する、本質的な恐怖がそこにあった。
矯正歯科で思わず声を上げた時の感情と重なった。
矯正は外見的なことだけれど、今思えば、あの感情は、自分の内面が投影されたものだったのだろうと思う。
仕事に関して、組織の中では自分らしく咲くことができないことを、あらゆる可能性の玉を全て使い切って、ついに受け入れざるを得なくなった私は、
最近になってようやく、実態のない”普通”へのあこがれを手放した。(実態がないのだから手放すも何もないのだけれど。)
だからと言って、絶対にこれでやっていけるといえる確実な代わりの玉を持っているわけではない。
磨いたら使えそうなものはいつくかあるけれど、どうやって磨いたらいいか、使ったらいいか、手探り状態だ。
長いこと、安定に片足を浸しながら、磨いたら何とかなりそうな小石たちを、分不相応な宝石箱に入れて眺めてみたり、気が向いたら磨いてみるごっこをして遊んでいたように思う。
いざ、その石を実際に磨いて使っていく時になって初めて、本当にこれは磨いたら光るのか、ちゃんと使えるのか、という不安と疑い、そして恐怖を感じている自分がいる。
それが、嘘のない今の自分の姿だった。
人間の恐怖の正体は、「分からないこと」から来るのだと聞く。
ひょんなことから、私はこの正体を知ることになった。そもそも、怖いと思っていたことすらあまり自覚が無かったのだけれど。
素の自分と向き合い、それを世の中にさらすこと。きっとこれからも、それに怖さを感じたり、言い訳をしたくなることは、沢山あるだろうと思う。
でもそれを自覚してさえいれば、対処することができる。
それに、怖いという感情は、本来は本能的に自分を守る為にあるものだから、適度な恐怖は生きていくのに必要だ。
「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」
このことわざの、前半のおどろおどろしい感じと、滑稽な結末、そして後味の痛快さが私は好きだ。
人生100年と考えると、私は春を終えて今夏にいる。一つの季節を終えて実感を持って学んだ道理は、勇気を出した分だけ人は成長できる、ということ。
守りの恐怖と攻めの勇気を味方に、不完全な自分を世の中にさらしながら、時に滑稽に、そして痛快に、夏、秋、冬を謳歌していきたいと思う。