「深読み LIFE OF PI(ライフ・オブ・パイ)&読みたいことを、書けばいい。」志賀直哉『小僧の神様』篇③(第270話)
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2019年9月20日 朝
スナックふかよみ
なんなんですか、これは…
志賀はずっと『ヨハネ伝』を別の話に置き換えているだけ…
だから志賀は「小説の神様」と呼ばれたんだよ。
では続きを見ていこうか…
最初に説明したように、「小僧の神様」とは「小僧の姿をした神様」という意味だった。
その「小僧の神様」である仙吉がこのタイミングで登場するのは、ここまでの流れと同様に『ヨハネ伝』第1章に沿っているから。
次は第17節だったよね。
17 律法(おきて)ハ モーセに由(より)て傳(つた)はり恩寵(めぐみ)と眞理(まこと)ハ イエス、キリストに由て來(きた)れり
18 未だ神を見し人あらず 惟(ただ)うみ給(たま)へる獨子(ひとりご)すなハち父(ちち)の懐(ふところ)に在者(あるもの)のみ之(これ)を彰(あらは)せり
あっ!
「父の懐にある者」のみが、神であることを表しているって…
そう。志賀は仙吉の姿をこう説明していた。
前掛の下に両手を入れて、行儀よく座っていた
前掛けの内側に両手を入れているということは…
両手が懐(ふところ)にある者…
乳(ちち)の懐に…
まさに『ライフ・オブ・パイ』じゃな。
『Life of Pi』Yann Martel
そんな馬鹿な…
「パイ」とは「あかし」…
なぜなら「円周 割る 直径」で導き出せる円周率「パイ」は、明石市の市章そのものだから…
そしてそれは「乳」にも見えた(笑)
さて、二人の番頭が噂する「鮨屋」の話を聴いた小僧仙吉は、その店に思い当たる節があった。
そして大人になった自分が、通ぶってその店の暖簾をくぐる姿を夢想する。
仙吉は早く自分も番頭になって、そんな通(つう)らしい口をききながら、勝手にそう云う家(うち)の暖簾をくぐる身分になりたいものだと思った。
「スシヤ」は「メシヤ」の駄洒落…
そして「通ぶる」と「暖簾をくぐる」は「千早振る」と「水くくる」だね。
ちはやぶる?
千早ぶる 神代もきかず 竜田川
からくれなゐに 水くくるとは
あっ!
落語『千早振る』の「水くくる」とは「水をくぐる」という意味…
つまりヨルダン川での洗礼のことだ!
『キリストの洗礼』バッキアッカ
小僧仙吉が夢想すると、二人の番頭はこんな会話を始める。
「何でも、与兵衛(よへえ)の息子が松屋の近所に店を出したと云う事だが、幸さん、お前は知らないかい」
「へえ存じませんな。松屋というとどこのです」
「私もよくは聞かなかったが、いずれ今川橋の松屋だろうよ」
「そうですか。で、そこは旨いんですか」
「そう云う評判だ」
「やはり与兵衛ですか」
「いや、何とか云った。何屋とか云ったよ。聴いたが忘れた」
「今川橋の松屋」は、今の銀座松屋のことね。
元々は横浜鶴屋だったけど、神田今川橋の松屋を買収して東京に進出した。
与兵衛の息子が出した何屋とかいう店…
あの華屋与兵衛のことですか?
その華屋与兵衛ではない。
握り鮨の元祖といわれる華屋与兵衛のことじゃ。
そして「与兵衛の息子は何屋か?」は、なぞなぞでもある。
なぞなぞ?
「与兵衛の息子は何屋か?」
答えは「メシヤ」…
あっ!
「ヨヘエ」とは「ヨセフ」と「ヤハウエ」を足したもの。
両者ともメシヤであるイエスの父だ。
やられたわ…
だけどなぜ二人の番頭は、与兵衛の息子の店を知らなかったのかしら?
二人とも鮨の通なんでしょ?
理由は簡単。『ヨハネ伝』を忠実に再現しているからだよ。
この会話は第19節から第22節にあたる。
19 ユダヤ人(びと) 祭司とレビの人をエルサレムよりヨハ子の所(もと)に遣(つか)はし爾(なんぢ)ハ誰ぞと問(とは)しめるとき證(あかし)せること左(さ)の如し
20 かれ諱(かく)す所(ところ)なく言顯(いひあらは)して我ハキリストに非ずと明(あきら)かに曰(いへ)り
21 また問(とひ)けるハ 然(さら)バ爾(なんぢ)ハ誰ぞエリヤなるか 否(いな)と答ふ 又なんぢハ彼(か)の預言者なる乎(か)と問しに 然(しか)らずと答(こたへ)たり
22 是(こゝ)に於(おい)て彼等また問(とひ)けるハ 爾(なんぢ)ハ誰なるか 我儕(われら)を遣(つか)はしゝ者に我儕が答(こたへ)を爲得(なしうる)やう我儕に告げよ 爾みづから如何に謂(いふ)や
祭司とレビの二人はヨハネに尋ねた。
「あなたは誰ですか?」
「私はキリストではない」
「じゃあエリヤですか?」
「NO」
「巷で話題の預言者ですか?」
「YES、ではない」
「いったいなんなんですか?わかるように説明してください。あなたは何者なのですか?」
なんてこった…
「与兵衛の息子」は「キリスト」で…
「松屋」は「エリヤ」だ…
だから志賀はこう続けた。
仙吉は「色々そう云う名代の店があるものだな」と思って聴いていた。そして、「然し旨いと云うと全体どう云う具合に旨いのだろう」そう思いながら、口の中に溜まって来る唾(つばき)を、音のしないように用心しいしい飲み込んだ。
第一場の〆だけに、いろいろ仕掛けてるわね。
わかるかしら?
なんだろう…
とりあえず「旨い」を連発してるところが引っ掛かります…
そういえば「鮨」って「魚」が「旨い」と書くわよね。
「旨」は「むね」とも読む。
胸?
「ドキがムネムネ」の「ムネ」ではのうて「主旨」の「むね」じゃ。
「旨」は「中心となるもの」とか「最も重要なこと」という意味…
つまり「主題・テーマ」という意味じゃな。
テーマ?
「旨」を連呼して、志賀は何を言おうとしてるんだろう…
うふふ。まだわからない?
ギリシャ語で「魚」は「ΙΧΘΥΣ(イクトゥス)」よね…
これは「イエス・キリスト・神の・子・救世主」の頭文字になっていた…
え?
つまり「魚が旨」と書く「鮨」という字は…
「イエス・キリスト・神の子・救世主がテーマ」とも読める…
ああっ…
なんと…「鮨」という字が…
まさに灯台下暗し…
そして小僧仙吉は「唾(つばき)」を「音のしないよう」に飲み込んだ。
この意味、わかるかな?
意味?
生唾の音を聞かれたら恥ずかしいからですよね?
年頃の女の子ならともかく、育ち盛りの男の子にとって、そんなことは恥ずかしくも何ともないだろう。
確かにそうですが…
ではなぜ?
答えはいつもテクストの中にある。
志賀はこう書いているんだよ。
「唾を、音のしないように用心しいしい飲み込んだ」
それが何か?
うふふ。
この部分を読む時は「唾」を声に出さないように…
ということよ(笑)
声に出さないように? どうして?
鈍い奴じゃな…
それでは「唾」と言ってみろ。
「唾」
言いましたけど?
今おぬしの頭には何が浮かんだ?
『インセプション』の「象を考えるな」じゃないんですから…
いいから、何が浮かんだか答えるのじゃ。
そんなの決まってるじゃないですか。
「唾」と言ったんですから、頭に浮かぶのは当然…
あれ?
どうしたの?
おかしいなあ…
違う「つばき」のことを思い浮かべちゃいました…
それでいいのよ。
志賀はそれを言いたかったんだから(笑)
えっ?
「唾(つばき)を、音のしないように用心しいしい飲み込む」とは…
「つばき」という音は、花の「椿」を連想させるから注意しよう
という意味なんだよ…
は? どういうこと?
なぜ花の椿を連想させてはいけないの?
ツバキは花が丸ごとポトリと落ちる…
だからツバキは「打ち首」をイメージさせる花だった…
ああ、それ聞いたことある…
だけどそれと『小僧の神様』が何の関係があるの?
サロメだよ…
オスカー・ワイルドの『サロメ』…
『預言者ヨカナーンの首に口づけするサロメ』
あっ…
洗礼者ヨハネの首…
実はこれが、小僧仙吉に鮨を御馳走した貴族院議員Aの「その後の行動」の伏線になっているんだ。
その後のAに関する描写、ちょっとモヤっとしなかった?
そういえば確かに「それでいいの?」って感じでした…
なんだか、煙に巻かれたような…
この伏線に気付いていれば、Aや妻の言動もスッと腑に落ちる仕掛けになっている。
詳しくは後程たっぷりと解説しよう。
まさか「ツバキ」にそんな仕掛けが…
ツバキといえば『椿姫』も忘れちゃいけないわね。
椿姫? オペラの?
あのオペラを『椿姫』と呼んでいるのは日本人だけ。
正しくは『La Traviata』という。
ラ… トラ…?
ラ・トラヴィアータ。
なんかパスタやピザの名前みたい…
「La Traviata」は「罪を背負った女」とか「道に迷った女」という意味。
つまり「贖いの子羊」とか「迷える子羊」って意味よ。
なんだかキリストっぽい…
「ぽい」じゃなくて「そのもの」なんだよ。
デュマ・フィスの原作小説では、それがよくわかる。
椿姫に愛された者が、埋葬された彼女の墓を開けて衝撃を受けるからね。
そして志賀は、椿姫の「ツバキ」も暗に匂わせている。
椿姫のツバキ? どういうこと?
主人公の高級娼婦マルグリットが「椿姫」と呼ばれたのは、いつも彼女が「椿」を身につけていたことによる。
毎日「椿」をつけてマルグリットは劇場の桟敷席に姿を現し、貴族たちはその色に注目していたんだ。
今日は白い椿か、それとも赤い椿か…
この絵みたいに?
『桟敷席』ルノワール
月のほとんどは「白」だった…
だけど数日だけ「赤」の日があるの…
男たちは桟敷席を見上げて「赤い椿」を身につけた彼女を目にすると、深いため息をついたという…
それって、これのことじゃ…
『エッケ・ホモ(この人を見よ)』
ムンカーチ・ミハーイ
志賀直哉は第一場の最後に「唾を音にしないように」と書き、読者の深層心理に「椿」のイメージを植え付けた…
それは、洗礼者ヨハネの処刑と、救世主イエスの処刑を予期させるイメージ…
『ヨハネ伝』の冒頭を完全再現した『小僧の神様』第一場に相応しい締めくくりと言えよう。
そこまで手が込んでいたなんて…
さすが、小説の神様…
志賀直哉
では、第二場を見ていこう。
ここまでわかれば、あとは簡単だ…
つづく
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