「深読み LIFE OF PI(ライフ・オブ・パイ)&読みたいことを、書けばいい。」(第259話)
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2020年 ✕月✕日
南の島
とある施設の中
ATMがよくなる?
そう。
TKNを食べると、ATMがよくなる。
猿ヶ島にはATMがあるの?
だけど、TKNを食べるとATMの調子が良くなるって、どういう意味?
お金がじゃんじゃん湧いて出る。
お風呂がいっぱいになるくらい。
お風呂?
お湯の代わりにお金を満たして、美女猿と一緒に入るんだよ。
バ、バスタブをお金で満たすってこと?
そう、金貨のお風呂。
すごい…
何かの雑誌でそういう写真を見たことはあるけど…
あんなのは幻想、嘘だと思ってた…
まさか本当にあるなんて…
そう、金貨のお風呂は実在した。
僕はこの目で見たんだ。
信じられない…
だろうね。僕もこの目で見るまでは、あんなの嘘だと思ってた。
で、タカナタカナタカナの歌は、それでおしまい?
いや。まだ続きがある。
♬TKNTKNTKN~♬
♬TKNを食べると~♬
また、このフレーズ?
今度はタカナを食べるとどうなるの?
♬KRDKRDKRD~♬
♬KRDにいいのさ~♬
KRDにいい?
2019年9月20日 朝
スナックふかよみ
もちろんこれは嘘。
太宰は最初からそんなエピローグを書くつもりはなかった。
「おいおい。誰か気付いてくれよ」という太宰のメッセージだ。
そして、「それ」を書いた志賀直哉と…
「それ」を書かなかった芥川龍之介…
この両者の違いも、踏まえているんじゃないかしら…
志賀直哉と芥川龍之介?
太宰治は『魚服記』の中で、上田秋成の存在を匂わせた。
小文『魚服記に就いて』では、創作の元ネタとして、上田秋成『雨月物語』の中の『夢応の鯉魚』と、その原点ともいえる中国の古典『魚服記』の名前を挙げている。
だけど元ネタは、それだけじゃなかったんだ。
志賀直哉の『小僧の神様』と、芥川龍之介の『南京の基督』から、太宰は着想を得ていたんだね。
志賀直哉の『小僧の神様』?
太宰はエッセイ『如是我聞』の中で、志賀直哉と『小僧の神様』をボロクソに言ってましたが…
あれは愛情の裏返しだ。
そもそも太宰は若い頃に、志賀直哉を貪るように読んでいた。
志賀直哉は、あの夏目漱石や芥川龍之介からも「あんなふうには書けない」と言われるほどの才能の持ち主だったからね。
そんな文学界の神みたいな人が、若い自分のことを公然と全否定したもんだから、太宰はパニックに陥ったんだよ。
しかも志賀直哉は、太宰の作品をほとんど読んだことないと言いながら、太宰を全否定した…
そして太宰は、亡き芥川に自分を重ね、すがるようになっていく…
太宰は『小僧の神様』の凄さをよくわかっていたはず。
『如是我聞』ではボロクソに言ってるけど、あれは嘘。
そして、同じ1920年の夏に発表された志賀の『小僧の神様』と芥川の『南京の基督』は、共通点が多い。
どちらも主人公が十代半ばで、たまたま自分の前に現れた人を神だと信じるようになる。
だけど、オチの描き方だけは大きく異なっていた。
『小僧の神様』は最後に作者自身が登場し、「蛇足」と言いながら後日談を説明し、見事に話を落とす。
一方『南京の基督』のオチは、物語の枠の中で語られる。
太宰は『魚服記』で後者を選んだわけですね。
「三日目にスワ(神)の遺体が人々の前に現れた」という後日談を語らずに。
それ以外にも太宰は『南京の基督』から大きな影響を受けている。
処女作品集の2作『猿ヶ島』と『魚服記』は、『南京の基督』の手法をそのまま踏襲しているんだ。
それが田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』に引き継がれ、『ライフ・オブ・パイ』につながった。
太宰は芥川の手法をそのまま使った?
どういうこと?
『南京の基督』を読み解いていけばわかる。
芥川は実に興味深いことを行っているからね。
とても短い作品なので、まずは読んでみて欲しい…
<15分後>
うーむ…
何とも言えない読後感です…
最後にヒロイン宋金花は、梅毒が消えて体がよくなっていた…
だけど聞き手の日本人は、泥酔男の正体を知っていた…
本当は病気が治っていないってオチ?
どう思う?
宋金花は、通りがかりの酔っ払い男をイエス・キリストだと思い込んだ…
そして、その後にたまたま、梅毒の症状が一時的に消える中間潜伏期に入った…
もしくはプラシーボ効果で治ったように錯覚しているだけとか…
科学的知識はないけど、信仰心だけは人一倍つよい…
知らぬが仏、鰯の頭も信心から、みたいな…
馬鹿め。
なぜおぬしは、いつもそんなふうにモノゴトの上っ面しか見ないのじゃ。
うわっつら?
じゃあ、どういうことなのですか?
主人公の宋金花は「聴く者が神を信じるようになる話」をしたんだよ。
神を信じていなかった聞き手に対して。
えっ?
だから聞き手の男は、ちょっと考えてから、宋金花へ「ある質問」をしたの…
「煩はないかい?」と…
この意味わかる?
ちょっと考えてから「わずらいはないかい?」と質問をした…
あっ…
最後の質問の前に、聞き手の男は何かを少し考えた…
そして彼女に確認するかのように「わずらい」の有無を尋ねた…
これは彼女を抱こうと考えたからだわ…
つまり聞き手の男は、彼女の話を信じたのよ…
うふふ。
『ライフ・オブ・パイ』とそっくりよね。
語られる2つのストーリー…
大虎と少女の「ありえない物語」と、泥酔男と少女の「残酷な物語」…
そして最後に聞き手が選んだのは…
「ありえない物語」のほう…
トラ? 『南京の基督』にはトラなんて出て来ませんが…
ばかめ。泥酔男は大虎なのじゃ。
は?
お酒を飲んでハメを外さない最近の若い子は、知らないかもしれないわね(笑)
昔は「泥酔する」ことを「トラになる」と言ったのよ。
ええっ!?トラになる?
そして『ヨハネによる福音書』で、イエスはこう言っている。
「トーラー(モーセ五書)とは私のこと」
あっ…
だから泥酔男の苗字は「マレー」だったの。
マレートラのことね(笑)
うそ…
それでは…
『ライフ・オブ・パイ』を書いたヤン・マーテルは…
芥川龍之介の『南京の基督』を読んでいると?
Yann Martel
間違いなく読んでるだろうね。
『南京の基督』では、聞き手が「日本人のライター」だった。
それを『ライフ・オブ・パイ』では、「日本人」と「ライター」に分けたというわけだ。
なんと…
ヤン・マーテルは、田辺聖子から太宰治へ、そして太宰治から芥川龍之介へ辿り着いた…
最後に「日本人/ライター」が、2つの話から1つを選び、「神を信じるようになる」のは、『南京の基督』から来ていたんだ…
太宰治もこのトリックに気付いていたってこと?
もちろん。
だから太宰は『魚服記』を書いた。
そして芥川の「付記」を真似て『魚服記に就いて』を書いたんだ。
「付記」って、これのことですか?
本篇を草するに当り、谷崎潤一郎氏作「秦淮(しんわい)の一夜」に負ふ所尠(すくな)からず。附記して感謝の意を表す。
芥川は、わざとタイトルを間違えている。
正しくは『秦淮の夜』よね(笑)
わざと間違えた?
本当に谷崎潤一郎の『秦淮の夜』から着想を得ていたのなら、きちんと正しいタイトルを書くはずだ。
だけど芥川はそうしなかった。
つまりこれは、ちょっとした悪戯、カモフラージュなんだね。
カモフラージュ?
確かに舞台設定は『秦淮の夜』とよく似ている。
だけど本当の元ネタは別にあるんだ。
この芥川の「悪戯」を、ヤン・マーテルは『LIFE OF PI』で真似をした。
「作者 覚え書き」で『Max and the Cats』という作品の名前を挙げたんだ。
豹と少年が漂流する『Max and the Cats』と、虎と少年が漂流する『LIFE OF PI』は、一見するとよく似ている…
だけど本当の元ネタは別にあった。
田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』であり、太宰治『猿ヶ島』であり、芥川龍之介『南京の基督』だ…
信じられない…
『南京の基督』という小説は『ライフ・オブ・パイ』の原型…
聴いた者が「神を信じるようになる」物語だ…
あの短い作品の中に、芥川は様々な仕掛けを施している…
それを読み解いていこう…