「深読み LIFE OF PI(ライフ・オブ・パイ)&読みたいことを、書けばいい。」(第260話)
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2019年9月20日 朝
スナックふかよみ
『南京の基督』という小説は『ライフ・オブ・パイ』の原型…
聴いた者が「神を信じるようになる」物語だ…
あの短い作品の中に、芥川は様々な仕掛けを施している…
それを読み解いていこう…
第一章は、こんなふうに始まります。
或秋の夜半であつた。南京(ナンキン)奇望街(きばうがい)の或家の一間には、色の蒼ざめた支那の少女が一人、古びた卓(テエブル)の上に頬杖をついて、盆に入れた西瓜(すゐくわ)の種を退屈さうに噛み破つてゐた。
とある秋の夜、南京を流れる秦淮河の近くにある繁華街…
娼家の一室で、少女が頬杖をつきながら、盆に入ったスイカの種をポリポリ食べていた…
「盆に入れたスイカの種」って、気になりますね…
何か別の意味が隠されてそう…
いいところに気付いたね。
そこは後でタネ明かしをする。
ちなみに「南京」は、昔、何と呼ばれていたか知っとるか?
南京の昔の名前? さあ…
「業」を「建てる」で「建業」。
三国志における呉の首都じゃ。
19世紀中期には「天京」とも呼ばれたわ。
キリスト教国家「太平天国」が南京を首都とし「天京」と改めたの。
そして、そもそも「南京」とは、「北の都」である「北京」に対する名称…
だから中華民国、いわゆる台湾の「正式」な首都は、今でも南京…
政府が置かれている台北は、戦時首都、臨時の首都という扱い…
なんかいろいろ深いわね、南京…
そして、南京の歓楽街で私窩子、つまり娼婦をしている少女の名前は、宋金花(そうきんか)という…
少女は名を宋金花と云つて、貧しい家計を助ける為に、夜々その部屋に客を迎へる、当年十五歳の私窩子(しくわし)であつた。
年は十五歳。太宰治『魚服記』の主人公スワと同じ年…
スワの「あの夜」も秋の土用過ぎ、10月下旬の出来事じゃったな。
北国青森の山間部では、初雪の降る季節じゃ。
主人公の年齢、事件が起こるタイミング…
明らかに太宰は『南京の基督』を踏襲していますね…
それだけじゃない。
芥川は、宋金花の仕事ぶりを、こんなふうに説明する。
彼女は朋輩の売笑婦と違つて、嘘もつかなければ我儘(わがまま)も張らず、夜毎に愉快さうな微笑を浮べて、この陰欝な部屋を訪れる、さまざまな客と戯れてゐた。さうして彼等の払つて行く金が、稀に約束の額より多かつた時は、たつた一人の父親を、一杯でも余計好きな酒に飽かせてやる事を楽しみにしてゐた。
稼ぎの多かった日は喜んだ…
なぜなら、父親に大好物のお酒をたくさん飲ませることが出来たから…
これって…
太宰はこれをスワの「きのこ採り」に置き換えた。
どちらも「キノコ」をとり、お金を稼ぐ行為だ。
マジですか…
やっぱり太宰が使った「ぬらぬらとしたキノコ」という表現には、十字架だけでなく、性的なイメージも隠されていたんだわ…
憧れの存在、芥川の『南京の基督』をベースにしていたから…
ということは…
スワがキノコを採りながら追想した「たったひとりのともだち」も、やはり…
そう。
宋金花も「きのこ採り」をしながら、部屋の壁に架けられた「たったひとりのともだち」のことを追想していた。
かう云ふ金花の行状は、勿論彼女が生れつきにも、拠つてゐるのに違ひなかつた。しかしまだその外に何か理由があるとしたら、それは金花が子供の時から、壁の上の十字架が示す通り、歿(な)くなつた母親に教へられた、羅馬加特力教(ロオマカトリツクけう)の信仰をずつと持ち続けてゐるからであつた。
幼い頃に宋金花は、亡くなった母親からローマ・カトリックを教えてもらった…
正式に洗礼を受けるのではなく、密かに教えられていたのね…
だから『ライフ・オブ・パイ』でも、幼い頃にパイは、亡くなった母親から密かにローマ・カトリックを教わった…
ローマ帝国内でキリスト教が禁教だった頃のやり方で…
なんと…
そして宋金花は、春の出来事を、ふと思い出す。
取材旅行で南京を訪れ、この部屋に遊びに来た、若い日本人のことを。
――さう云へば今年の春、上海の競馬を見物かたがた、南部支那の風光を探りに来た、若い日本の旅行家が、金花の部屋に物好きな一夜を明かした事があつた。
こ、これは…
うふふ。
芥川龍之介『南京の基督』では…
南部志那の風光を採りに来た、若い日本の旅行家…
そして太宰治『魚服記』では…
南部の隣「津軽」の「羊歯」を採りに来た、若い都会の学生…
そして『魚服記』で「珍しい羊歯」が生えていたのは…
稜線が走る馬の形に似ていた「馬禿山」じゃ。
あっ!
太宰は、この「馬禿山」にまつわる、珍妙な伝説を披露した。
大昔この馬禿山の周囲は海になっていて、奥州平泉から逃げてきた義経の船が、海上に突き出た山頂に衝突したというのじゃ…
これは芥川が書いた「上海の競馬」という言葉を再現させるためじゃな。
前駆者 芥川の預言を成就させるために、太宰はあんな嘘を書いたのじゃ。
よっぽど好きだったのね、太宰は芥川のことを…
そういえば、髪型やポーズも、芥川そっくり…
そして若い日本人は、宋金花の部屋の壁に掛かっていた十字架に気付き、こんな会話を交わす。
「お前は耶蘇教徒かい。」と、覚束(おぼつか)ない支那語で話しかけた。
「ええ、五つの時に洗礼を受けました。」
「さうしてこんな商売をしてゐるのかい。」
彼の声にはこの瞬間、皮肉な調子が交つたやうであつた。が、金花は彼の腕に、鴉髻(あけい)の頭を凭(もた)せながら、何時もの通り晴れ晴れと、糸切歯の見える笑を洩らした。
十字架のイエスは、贖いの子羊…
そして若い日本人は、宋金花の糸切歯を見た…
だから太宰は、若い学生に「羊歯」を探させた…
若い日本人は、宋金花の現状と信仰の両立が理解できず、しつこく質問をする。
娼婦という仕事を、キリスト教における大罪「姦淫」にあたると考えたんだね。
「この商売をしなければ、阿父様(おとうさん)も私も餓ゑ死をしてしまひますから。」
「お前の父親は老人なのかい。」
「ええ――もう腰も立たないのです。」
「しかしだね、――しかしこんな稼業をしてゐたのでは、天国に行かれないと思やしないか。」
いるわよね、こういう無粋な人。
風俗嬢に「こんなことをしてちゃいけないよ」と説教しながら、やることはしっかりやるタイプ。
しかし、若い日本人が言う通り、やはり売春は姦淫の罪にあたるのでは?
宋金花はプロフェッショナル。対価をもらって奉仕しておるのじゃ。
大罪とされる「姦淫」とは、いわゆる不純異性行為や不義密通のこと。
男にはどうしても抑えられぬ性欲というものがある。それが罪に向かわぬよう、古来から彼女のような職業があるのだな。
言ってみれば、人々を堕罪から救っている観音様、生き仏のようなものじゃ…
なるほど…
宋金花は若い日本人に、自身の職業と信仰を馬鹿にされた…
こんなことを言われたら普通は嫌な気持ちになるもんだけど、彼女はそれを表に出さなかった。
彼女は気立てがいいだけじゃなく、とても頭のいい少女だから。
機転を利かせ、客の機嫌を損ねることのないように、こう答えたんだ。
「いいえ。」
金花はちよいと十字架を眺めながら、考深さうな眼つきになつた。
「天国にいらつしやる基督様は、きつと私の心もちを汲みとつて下さると思ひますから。――それでなければ基督様は姚家巷(えうかかう)の警察署の御役人も同じ事ですもの。」
「そういう偏見と上から目線は、まるで、権力をカサにしながらスケベ心を丸出しにする役人みたいですよ」
金花ちゃんは遠回しにこう言ってるのね…
その通り。
どうせ無学の小娘だろうと見くびっていた若い日本人は、見事に一本とられてしまった。
だから彼は、お詫びの印にプレゼントをする。
若い日本の旅行家は微笑した。さうして上衣の隠しを探ると、翡翠(ひすゐ)の耳環を一双(さう)出して、手づから彼女の耳へ下げてやつた。
「これはさつき日本へ土産に買つた耳環だが、今夜の記念にお前にやるよ。」――
うふふ。
芥川、笑える(笑)
えっ? 何が可笑しいのですか?
翡翠のリング(笑)
ヒスイのイヤリングが?
芥川は、キリスト降臨への伏線を、張っているんだよ。
「翡翠の耳環」というアイテムは、「盆に入れた西瓜の種」と同様に、救世主が現われることへの伏線なんだ。
スイカの種とヒスイの耳環が救世主降臨への伏線? なぜ?
驚くのはまだ早い。伏線はまだまだ張られるぞ。
というか、小説の冒頭から泥酔男が現われるところまで、ほぼ伏線だらけじゃ。
ええっ?
さて、春の出来事の次は、「奇跡の夜」の一ヵ月前の出来事が語られる。
9月半ば頃、宋金花の身体に梅毒の症状が出始めた。
当時の梅毒は、原因もわからないし効果的な治療方法もなく、悪化してしまうと最後は体がボロボロになるか発狂して死ぬという、とても恐ろしい病気だ。
そして芥川は、ここで先輩娼婦を登場させる。
対称的な手の差し伸べ方をする二人の娼婦「陳山茶(ちんさんさ)」と「毛迎春(もうげいしゅん)」を…
ちんさんさ… もうげいしゅん…
なんだか、ふざけたような名前ですね…
「ような」じゃなくて、ふざけてるんだよ、芥川は。
ぜんぶ冗談だから。
は? 冗談?
そもそもヒロインの名前「宋金花」も冗談だ。
ぜんぶ駄洒落なんだよね。
「そうきんか」もダジャレ?
いったいどういうことですか?
わかった…
「キン」と「チン」と「毛」ってこと?
やあねえ、まったく。小学生じゃないんだから(笑)
相手は文豪 芥川龍之介よ。
じゃあ、どういうこと?
二人の先輩娼婦「陳山茶」と「毛迎春」は、ヒロイン宋金花が作り出した架空の存在かもしれない。
宋金花の心の葛藤が生み出した、天使と悪魔みたいな存在だ。
は? 妄想ってことですか?
そう。だからあんなふうにふざけた名前なんだよ。
全部「嘘」だから。
三人とも名前が駄洒落…
二人の先輩娼婦は宋金花の妄想…
意味が分かりません、教官。詳しく教えてください。
いいだろう。
名前のトリックは『南京の基督』という作品を理解する上で、非常に重要なポイントだ。
そして、ヒロインが見る妄想のトリックも…
つづく
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