「深読み LIFE OF PI(ライフ・オブ・パイ)完結篇㉑&読みたいことを、書けばいい。」(第247話)
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2019年9月20日 朝
スナックふかよみ
太宰治『猿ヶ島』
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うふふ。二人とも、どうしたの?
石のトラみたいに固まっちゃって(笑)
だ、だって… あの終わり方…
『ライフ・オブ・パイ』そのまんま…
エピローグのことか?
一八九六年、六月のなかば、ロンドン博物館附属動物園の事務所に、日本猿の遁走(とんそう)が報ぜられた。行方が知れぬのである。しかも、一匹でなかった。二匹である。
『ライフ・オブ・パイ』のオチ…
調査員オカモトの報告書そのものじゃないですか…
「太平洋上で遭難したパイ・パテル氏は、困難極まる状況の中、奇跡としか言いようがない生還を果たした。しかも、一人ではなかった。あろうことか、成獣の虎と共に…」
これは、いったい…
ヤン・マーテルは、間違いなく『猿ヶ島』を読んでいる…
Yann Martel
田辺聖子の『ジョゼと虎と魚たち』から行き着いたってこと?
あの「猿が島」というワードが気になって、そのルーツを調べたってこと?
このエピローグの件については、後程たっぷりと話す。
まずは冒頭シーンの検証からだ。
あの描写、何か不自然だと思わなかった?
そういえば…
冒頭は、やたらと「島」の描写に費やされていましたね。
岩山や丘がどうだとか、道がどうだとか…
その通り。
あの冒頭シーン、作品全体の4分の1にもあたる部分が、風景の説明だけに費やされている。
ただでさえ短い小説なのに、あんな長々とした説明、必要かしら?
散々描写した岩山も道も、結局、何の伏線にもなっていなかったし…
太宰は意図的にやっているんだよ。
あの「島」が「どこ」なのかを説明しているんだ。
この出だしのフレーズで気がつかない?
はるばると海を越えて、この島に着いたときの私の憂愁を思い給え。夜なのか昼なのか、島は深い霧に包まれて眠っていた。
え?
「夜なのか昼なのか」わからない、と言ってるんだよ。
あっ!マンテーニャの2枚の絵!
その通り。
田辺聖子が「動物園」で使ったアンドレア・マンテーニャの2枚の絵のことだ。
あの2枚の絵は、どちらも「昼なのか夜なのか」わからないように描かれている。
『ゲッセマネの祈り』は、本来「深夜」のはずなのに、「早朝」や「夕方」のように描かれていて…
『Agony in the Garden』
Andrea Mantegna
『磔刑図』は、本来「太陽が消え、夜のようになった午後3時」のはずなのに…
「晴天の昼間」として描かれている…
『Crucifixion』Andrea Mantegna
その次の文章で、剥き出しの岩山を説明して…
それから洞窟を…
裸の大きい岩が急な勾配を作っていくつもいくつも積みかさなり、ところどころに洞窟のくろい口のあいているのがおぼろに見えた。これは山であろうか。一本の青草もない。
確かに他の大きな岩山には、よく見ると少しだけ草木が生えてますが…
あの洞窟の岩山だけは、一本の青草もない…
主人公が最初に立っていた場所は「ゴルゴダの丘」だったんだね。
そして太宰は、一発目の駄洒落をかます。
私は岩山の岸に沿うてよろよろと歩いた。あやしい呼び声がときどき聞える。さほど遠くからでもない。狼であろうか。
ダジャレ?
「狼であろうか」は…
「おお、神であろうか」だ。
えっ…
♬男はオ~オカミ~ 生まれながらの雄神♬
♬遠くの空から 呼びかける声がする♬
田辺聖子が『ジョゼと虎と魚たち』の中で「スキーが好き」とかダジャレを連発するのは、太宰の『猿ヶ島』の影響(笑)
そうだったんですか…
主人公は道に沿って歩き始める。
つまり、ゴルゴダの丘を背に、エルサレムの街へ向かって…
どんどん進むと、こんな景色になった…
歩いても歩いても、こつこつの固い道である。右手は岩山であって、すぐ左手には粗い胡麻石が殆ど垂直にそそり立っているのだ。そのあいだに、いま私の歩いている此の道が、六尺ほどの幅で、坦々とつづいている。
右手は岩山、左手は垂直にそそり立つ崖…
そして、その間を縫うように続く約180㎝幅の道…
つまり、ここ?
その通り。
主人公は、エルサレムの街を抜けて、オリーブ山の麓「ゲッセマネの園」へやって来た。
「ゴルゴダの丘」と「ゲッセマネの園」は、エルサレムを挟んでほぼ対極に位置する。
そして、ずっと道を進んでいたはずの主人公は…
なぜか元の場所に戻っていた…
道のつきるところまで歩こう。言うすべもない混乱と疲労から、なにものも恐れぬ勇気を得ていたのである。
ものの半里も歩いたろうか。私は、再びもとの出発点に立っていた。私は道が岩山をぐるっとめぐってついてあるのを了解した。おそらく、私はおなじ道を二度ほどめぐったにちがいない。私は島が思いのほかに小さいのを知った。
なぜなら…
アンドレア・マンテーニャの『磔刑図』には…
本来そこにあるはずのない「ゲッセマネの園」が描かれていたから…
その通り。
なぜかマンテーニャは「ゲッセマネで祈るイエス」を『磔刑図』の中に「虎のような岩」として描いた。
エルサレムを挟んで対極にあるはずの「ゲッセマネの園」と「ゴルゴダの丘」を、同じ空間の中でつなげてしまったんだ。
おそらく太宰はこの奇妙な描写に気付いていた。
だから、まっすぐ道を歩いていた主人公が、元の場所に戻ることになったというわけ。
なぜ太宰は、こんなことに気付いたのかしら?
太宰は若い頃、聖書を勉強していた。
しかも、翻訳ではなく、ちゃんと原典で読みたいからと、わざわざギリシャ語まで勉強していたんだ。
おそらく宗教画もたくさん見ているはず。
彼ほどの観察力があれば、すぐに気付くだろうね。
元の場所に戻って来た主人公は、周囲を観察します…
遠くに見える「3つの山」について…
霧は次第にうすらぎ、山のいただきが私のすぐ額のうえにのしかかって見えだした。峯(みね)が三つ。まんなかの円い峯は、高さが三四丈もあるであろうか。様様の色をしたひらたい岩で畳まれ、その片側の傾斜がゆるく流れて隣の小さくとがった峯へ伸び、もう一方の側の傾斜は、けわしい断崖をなしてその峯の中腹あたりにまで滑り落ち、それからまたふくらみがむくむく起って、ひろい丘になっている。
ここでのポイントは「山のいただきが私のすぐ額のうえにのしかかって見えだした」だ。
主人公は、絵の左端にいる使徒ヨハネの位置で、遠くの景色を眺めている。
ホントだ…
太宰が書いたそのまんまの景色…
しかし次の描写が…
『磔刑図』には「細い滝」などありません…
断崖と丘の硲(はざま)から、細い滝がひとすじ流れ出ていた。
あっ!『ゲッセマネの祈り』にはあったわよ!
ひとすじの細い滝が!
確かに「ひとすじの細い滝」ですが…
「断崖と丘の硲(はざま)から」ではありませんよね…
あ、そっか…
じゃあ太宰の勘違い?
太宰治を舐めてもらっちゃ困るな。
えっ?
「断崖と丘の硲(はざま)から、細い滝がひとすじ流れ出ていた。」は…
ちゃんと『磔刑図』の中に存在する…
ほら、こんなふうに…
細い滝が、ひとすじ…
しかも、まさに「断崖と丘の硲(はざま)から」です…
なんと…
そして太宰は「木」について言及する。
木が二本見える。滝口に、一本。樫(カシ)に似たのが。丘の上にも、一本。えたいの知れぬふとい木が。そうして、いずれも枯れている。
カシに似たのと、えたいの知れぬ木…
なぜ片方は「カシに似たの」と特定されて、もう片方は「えたいの知れぬ木」なのでしょう?
「カシに似たの」が2本あったら大変でしょ?
は?
初歩的なマッチ棒パズルだよ。
「カシ」の中の線を1本だけ動かすと、まったく別の意味の言葉になる。
この物語にとって、とても重要な言葉に…
あっ!「カミ」!
その通り。「カシに似たの」とは「カミに似たの」という意味だ。
つまり、滝口の木は、神の子イエス・キリストの十字架…
創造神・旧約の神とイコールではないけど、限りなく似た存在…
ジョゼの本名「クミ子」が「カミ子」のことだったり、彼女の特徴が「下肢」だったりしたのは、ここから来てるのかもね。
なんか、そんな気がする…
「カシに似た木」が「カミに似た木」だとしたら…
丘の方の「えたいの知れぬふとい木」とは…
イエスを偽救世主と罵った、左盗ゲスタスの十字架…
「木」が1本足りなくない? 右盗ディスマスは?
「木が3本」なんて書いたらバレバレになっちゃうでしょ?
それに、ディスマスの十字架がない方が、寓話的にはシンプルでいい。
太宰は「カミに似た木」と「えたいの知れぬ木」を対照的に描いているからね。
なるほど。確かにそうかも。
そして主人公は、カミに似た木、つまりイエスの十字架に登る…
すると、空の上から不思議な歌声が聴こえてきた…
ふぶきのこえ
われをよぶ
とらわれの
われをよぶ
いのちともしき
われをよぶ
この歌だったのね…
「トラ、我の、我を呼ぶ」じゃなかったんだわ…
「ふぶきのこえ」とは「風吹の声」…
つまり「遠くまで聞こえるような力強い声で」という意味…
「とらわれの」とは「囚われ(捕らわれ)の」…
つまり「十字架に囚われて」という意味…
そして「いのちともしき」は「命 乏しき」…
つまり「命が尽きようとしている」という意味…
では、これらの条件下で発せられた「我を呼ぶ」とは?
エリ、エリ、レマ、サバクタニ…
または、エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ…
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」です…
その通り。
そして、主人公が足場にしていた枯れ枝を折った瞬間、歌声の主が地上に降りてくる…
足だまりにしていた枯枝がぽきっと折れた。不覚にも私は、ずるずる幹づたいに滑り落ちた。
「折ったな。」
その声を、つい頭の上で、はっきり聞いた。
イエスは十字架で足を折られなかった…
旧約にあるメシアの預言が成就されるために…
なるほど。折ってしまったから突っ込まれたんですね…
台本と違う、と…
現われたのは、猿。
もちろん神が投影された存在だ。
ここから二匹の猿による、謎めいたやり取りが始まる…