深読み完全解説 クリストファー・ノーランの『TENET テネット』第1話「プロローグ」
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2020年10月
東京都渋谷区神南
NHK放送センター
NHK総合リスク管理室
情報解析センター
おせーな。もう6時だぜ。
いったい何時間待たせるつもりなんだよ。
それはこっちの台詞よ呉羽君。
なぜ私たちUDIラボ(UNNATURAL DESCRIPTION INVESTIGATION LABORATORY:不自然描写究明研究所)が、あんたたち情報解析センターの新教官就任パーティーに付き合わされるわけ?
文句を言うなら俺じゃなくて会長様に言えっつーの。
お前らUDIラボも新教官就任セレモニーに呼ぼうと言い出したのは、この異例人事の発案者であるNHK会長だ。
あそこのお偉いさん席に行って本人に直接文句言って来いよ。
そんなの言えるわけないでしょ、まったく…
それにしても、就任初日から大幅に遅刻するって有り得ない…
会長をはじめ、お偉方が勢揃いして待っているというのに…
いったいどういう神経してるのかしら?
そういう人だって言ってたわ…
お姉ちゃんが…
そういう人?
神南恭一郎は、人を食ったような男…
一緒に居ても何を考えているのか全くわからないって、お姉ちゃんが言ってた…
なるほど。人を食ったような男か…
あなたのお姉さんカヨコはアメリカ政府の危機管理・インテリジェンス部門におけるエリート官僚だから、当然、元CIAの神南恭一郎のことも知っている…
あのカヨコがそう言うのなら、間違いなく一筋縄ではいかない男ね、神南恭一郎という男は…
しかしすげえ時代になったもんだな…
まさか自分の上司に元CIAのスパイ、しかも世界を揺るがす様々な大事件に関与してきた大物特殊工作員が来るなんて思いもしなかったぜ…
しかも伝説の秘密犯罪組織育成機関「虎の穴」出身で、コードネームは「闇の虎」って、ほとんど漫画やスパイ映画の世界だろ…
公共放送「みなさまのNHK」が、こんな得体の知れない男を招聘するなんてね…
会長は、よっぽどあんたたち情報解析センターの体たらくが御不満だったと見える…
ほとんど業務が被っている私たちUDIラボが設立されたのも、あんたたちじゃ処理しきれない仕事が山ほどあるからだし…
うるせーな。こっちだって必死にやってんだ。
いちいち重箱の隅をつつくような最近の風潮が悪いんだよ。
些細なことでも問題視して炎上させ「謝罪しろ!」って騒ぐ風潮が。
さっきから何をブツブツ文句言ってるんだ呉羽…
あ、田木さん…
ブツブツ文句言ってんのは俺じゃなくて、このUDIラボの女たちで…
また口喧嘩か、お前たちは…
我々情報解析センターとUDIラボは、言ってみれば腹違いの兄妹みたいなもの…
争うのではなく切磋琢磨しろと常日頃言ってるだろう?
すいません、田木さん…
田木所長の言う通りだぞ、お前たち。
今日は我々にも学びの機会をと招いて頂いたのだ。
世界トップレベルの情報解析スペシャリストによる貴重な話を聞けるまたとないチャンスなんだぞ。
ブツブツ文句言うのはやめなさい。
はい、所長…
しかし待てども待てども本人が現れないというのは…
もう2時間もこうして…
彼は飛行機に乗り遅れたらしい。
はい?
先ほど入った情報によると…
神南恭一郎はサンフランシスコの空港で飛行機に乗り遅れ、出発が予定より2時間ほど遅れたそうだ…
もうすぐ羽田に到着し、大至急ヘリコプターでこちらへ向かうとのこと…
飛行機に乗り遅れた?
大事な日に朝寝坊でもしたんですか?
いや。空港には十分な時間の余裕を持って到着したそうだ。
ただラウンジで旧友にばったり会い、話が盛り上がっている内に、出発時間が過ぎてしまったと…
友だちと話し込んでて時間が過ぎてしまった?
CIAのスーパーエージェントが、そんな間抜けな理由で飛行機に乗り遅れるなんて…
ただの友だちではない…
ここ数年の間に世界的にその名が知られるようになったその友人の「名付け親」が神南恭一郎だという…
名付け親? 世界的有名人の?
誰ですか?
オードリーだ。
オードリー・ヘップバーン?
彼女は故人。1993年に亡くなってる。
それにおかしいだろ。1929年生まれの彼女の名付け親だとしたら、神南恭一郎はいくつになるんだ?
あ、そっか…
じゃあお笑い芸人のオードリー?
あのコンビ名を名付けたんですか?
そのオードリーではない。世界的有名人だと言っただろ。
じゃあ、どのオードリー?
オードリー・タン(Audrey Tang)。
世界が注目する台湾の若きIT大臣だ。
あ、あのオードリー・タンですか?
その名付け親?
彼女は男性「唐 宗漢(タン・ツォンハン)」として台湾(中華民国)に生まれ、男である外見と女である内面のギャップに悩んでいた。
そんな彼女に「オードリー・タン」への改名を勧めたのが神南恭一郎らしい。
改名?
というか、どっから「オードリー・タン」なんて名前が出てきたんですか?
彼女の境遇を「とある有名人」に重ねて改名を提案したらしい…
神戸で台湾人「荘 芝蘭(ツエン・ツーレイ)」として生まれ、少女時代は男勝りの外見に悩むが、それを長所に変えて宝塚で男役のトップスターまで上り詰めた「鳳 蘭(おおとり らん)」を引き合いに出して…
オードリー・タンという名前は「オートリ・ラン」の駄洒落なんですか?
どうやらそうらしい。
ミコト、知ってた?
神南恭一郎が Audrey Tang の名付け親だってこと…
ううん… これは初耳…
ちなみに神南恭一郎とオードリー・タンの二人がサンフランシスコの空港で盛り上がったのは映画の話だったそうだ…
クリストファー・ノーランの最新作『TENET テネット』について語り合っている内に、飛行機の時間が過ぎてしまったと…
『TENET テネット』の話で盛り上がり、飛行機の時間を逃した?
君は観たかね、あの映画を?
もちろん観ましたよ。
最初はわけがわからなかったんで、結局、三回観ました。
確かに語り始めたら時間を忘れそうになる映画だけど…
ねえねえ、やっぱりニールは未来のマックスなの?
あたりめーだろ。
あの二人が別人だったら、最後に主人公が母子の命を守る理由がねーべ。
マックス君の本名マクシミリアン(MAXIMILIEN)を逆さから読むと最初が「NEIL」だし。
あ、そうか…
やっぱりそうなんだ…
田木さんは観ました?
うむ。神南恭一郎からも必ず観ておけと言われてな…
最初の講義の教材に使うからと…
講義の教材に? テネットを?
それなら楽勝だ。3回も観ていろいろ確認したもんね。
ニールはマックスで間違いない!
そういうレベルの話ではないようだ…
え?
神南恭一郎から送られてきた資料には、授業で取り上げる考察例として、いくつものクエスチョンが書かれていた…
いくつものクエスチョン? いったい何ですか?
例えば…
キャットの子マックスであるニールのお守りは、なぜ「長い紐のついた穴あき硬貨」なのか?
ニールのお守りが穴あきコインである理由?
そんなの映画の中では全く触れられていませんでしたけど?
ただの「穴あきコイン」ではない。
「長い紐のついた穴あきコイン」である理由だ。
ニールの穴あきコインに長い紐がついている理由?
お前ら、気づいたか?
ううん… ヒントも何も、コインに関係する話なんて一切無かったと思う…
だよな?
しかし神南恭一郎は理由があると言っていた…
ニールのお守りが「長い紐のついた穴あきコイン」でなければならない明確な理由があると…
わけわかんねーな…
他には?
なぜニールは主人公に「ダイエットコーク」を注文したのか?
なぜ自分には「ウォッカトニック」で、主人公には「ダイエットコーク」だったのか?
は? 飲み物に意味なんてあるんですか?
神南恭一郎曰く、すべてのものには意味があるという…
ウォッカトニックである理由も、ダイエットコークである理由も…
これは加藤シゲアキの小説『ピンクとグレー』の各章につけられたドリンク名と同じ事だと…
はあ? なんで加藤シゲアキの小説?
そういえばオスロ空港のフリーポートではコーヒーを注文してたわね…
わざわざエスプレッソと指定して…
そしてあの持ち方…
あの件についてもクエスチョンになっていた…
なぜ「エスプレッソ」を注文し、あのような持ち方をしていたのか?
そもそも、液体物は持ち込み禁止であるはずの絵画保管室に入る際、なぜスタッフは飲み物を勧めたのか?
そういえばそうだな…
火災時の消化にも水を絶対に使わないことを自慢していたのに、なぜ飲み物を勧めて持ち込ませたんだ?
全く何の伏線にもなっていない飲み物をなぜ?
神南恭一郎の話では、そこにも明確な理由があるという…
あそこでは飲み物を注文されなければならず、それはエスプレッソでなければならないと…
では、あのカップとソーサーの持ち方にも意味が?
もちろん。そこがポイントだと神南恭一郎は言っていた。
何なのそれ…
思考訓練のクエスチョンは、他にもまだまだたくさんある…
なぜキャットが肩入れしていたアレポの贋作はゴヤの『イーグルハンター』とルーベンスの『入浴する女』だったのか?
贋作がこの2枚の絵である理由?
そんなものあるんですか?
神南恭一郎は言っていた…
キャットが関わる絵は、この2枚でなければならないと…
そういえば、あの鑑定シーンで、キャットは奇妙なことを口走っていた…
絵を持ち込んだ主人公が「ゴヤだ」と言うと、キャットは主人公の名前だと勘違いして「あなたはゴヤさん?」と尋ねたの…
そうそう。あの場面であのボケ要る?
そのボケも重要だと神南恭一郎は言っていた…
クリストファー・ノーランはどうしても「キャットの名前ボケ」を入れる必要があったのだと…
キャットは名前でボケる必要があった?
『TENET テネット』は吉本新喜劇やお笑い映画じゃないでしょう?
しかし事実、キャットは名前でボケをかました…
映画にとって本当に必要ないものなら、あんな滑りまくりのギャグを言わせないだろう…
確かにそうですけど…
神南恭一郎の資料には、こんな調子で『TENET テネット』全編にわたるクエスチョンがびっしり書き込まれていた…
ページ数およそ1000…
映画冒頭からラストまで、すべてのシーンにおけるクエスチョンが…
ページ数1000って…
それを読むだけでも大変じゃないですか…
ああ、大変だった…
ザッと目を通すだけでも三日かかったかな…
ヤバすぎる神南恭一郎…
そんな男が俺たちの新教官だなんて…