この作品は奇跡が起こらない 〜ワールドトリガーについてちょっと語らせてくれないか〜
ワールドトリガーについては前回の記事で全て出しきった、もう書くことは無いだろうと思っていたのですが、性懲りも無くまた書いてしまいました。
私は何かにハマるとひたすらそのことについて考え、こうかなああかなと思考を巡らせていくのが好きなようです。良ければもう一度、私と共に思考と考察の遠征の旅へと出発していただければ嬉しいです。
大丈夫、選抜試験はありません。
さぁ行きましょう、トリガーオン!
この記事は「ワールドトリガー(以下ワートリと言います)」のネタバレを含んでおります。原作未読の方はご注意ください。
▼ワールドトリガーてなんぞ?前回の記事とは?という方はこちら
前回の記事はワートリを読んで感じた「他の作品にはない違和感」について触れていきました。
今回はワートリをn周した後に「なるほど、これはこういうことだったのか!」と修君が面食らったように私が思わず「憎いなぁ」と感じた点を備忘録として書きたいと思います。
この記事を読んでもう一度ワートリの漫画やアニメを楽しんで頂ければ嬉しいです。
後からじわじわくる、玉狛第二チーム結成のエピソードが憎い
私の中ですごい大好きなエピソードがありまして。
それが初期の初期である三巻にある玉狛第二のチーム結成のお話です。
初見時は「ふーん」とか「へぇ〜」程度で流していたお話なのですが、後々よく考えてみると「あれ...?」と立ち止まりマジかと面食らうエピソードでした。
何が憎いって「珍しいな」と感じたからです。
何が珍しいと思った?
物語の主軸となる『作品の目的・願い』がメインだと思っていた二人(修と遊真)のものではなくヒロイン(千佳)のものだったこと
メイン主人公の修と遊真が物語の主軸でサポート役だったこと
上記を理解すると三雲修の歪さ、アンバランスさが浮き彫りになること
ワートリで数年振りに少年漫画に興味を持った私は、少年漫画の王道パターンについて考えていました。
「主人公は何を目指しているのか、目的はなんだ」という物語の主軸についてです。
『ワンピース』や『鬼滅の刃』などといったいわゆる「ジャンプ作品」は明確な目的を持った主人公が多いです。その方が読者も物語が分かりやすいからでしょう。
なのでワートリを初めてアニメで観たときは修君、ないし遊真が『何を目指して物語を動かすのか』に興味があったのです。
しかし蓋を開けてみるとビックリ。
メインの目的はこの二人のものじゃなかった。
まさかのヒロイン枠の千佳ちゃんでした。
そっちかよ!!!!!
思わず「あぁ、この女の子の願いを主軸に持ってくるのか!そこなのか!」と声を出してしまったくらいです。
流石に「異世界人ポジション」に居る初期の不思議キャラ遊真は何かしらの目的があるだろうと思っていました。ですがむしろその逆で、ほんの数話で遊真は「目的を失った迷子ちゃん」になっていたのです。
まさか遊真ですらサポート役になるとは。
今まで散々この二人をメイン視点として物語が動いていたのにも関わらず、物語の主軸ではこの二人はサポート役に徹するという構図がすごく珍しい。
そしてこれを理解すると三雲修というキャラの歪さがじわじわと感じ取れてくるのがミソです。やめろ、ペンチは持つな。
チーム制ならではの共依存型の主人公たち
ワートリには主人公が四人いると言われています。
三雲修、空閑遊真、雨取千佳、迅悠一の四人です。
主人公が四人てどういうこっちゃ?と最初は疑問符が頭を回っていたのですが、作品を読み続けているとなんとなく理解できてきました。
みんな独立してそうで独立していない、どこかで誰かに依存しているのだと感じます。
玉狛第二の三人はもちろんですが、唯一迅さんだけがまだ全容が掴めない謎めいたキャラクターです。後々迅さんのことが明らかになってくるのでは、と楽しみにしています。
今回は玉狛第二の三人について見ていきましょう。
先ほども述べた玉狛第二のチーム結成の話を主人公の中でも一番メインらしい修君からの視点で追ってみます。
ワートリの物語を考えると、修君のポジションは完璧裏方寄りだと思うのです。正直そこまで重要ではない立ち位置に居るキャラクターだと感じられます。
一言で言えば、三雲修は彼自身の能力よりも彼の周りにいる人間によって存在感を高められているんですよね。
彼自身は平凡というか、むしろ並よりも劣っているというか。まぁ、その、クソ弱い。
遊真をチームに誘う過程も非常に興味深いです。
ここでは修君は二つの願いのために動きます。
千佳ちゃんの願い→兄と友人を探しにいきたい
レプリカの願い→遊真に生きる目的を与えてほしい
彼自身の願いのためというよりも言伝役、交渉役のような立ち位置なんです。
今までメイン視点でいた主人公であるにも関わらず、物語の主軸というここでの彼の存在感は低い。まさかのほぼ外野!
しかし遊真が一度ボーダー加入の勧誘を断り、その彼をもう一度勧誘し成功したことで修君の存在意義がここで高まります。
そして能力的にはドドドド底辺なのにリーダーに据えることで玉狛第二の精神的支えになっていく。チームが結成したことで三人はやっと地に足がついていきます。
レプリカを失う前の遊真もどちらかと言えば力を貸すサポート役の立ち位置でしたが、アフトクラトル編でレプリカを失うことで彼の自立と目的が生まれました。
ここから遊真も主体になっていくと言えます。レプリカ.......ぐすん。
メガネと白い子が出会って、女の子の願いで全員が一つになり物語が大きく動く。
メガネ単体でも白い子単体でもこの二人だけでもなく三人で、ってのが良いですね。
白い子が「女の子の願いを聞く」メガネの子を助けるという構図が良い。ややこしいわ!
修君と千佳ちゃんは遊真の経験と強さに依存して、遊真は生きる目的を与えてくれる二人(特に修君)に依存していく構図に見えます。
ここがクッソ良いなぁと感じます。初期の空気感が大好きです。
三雲修の歪み
きた。
マジでこれについて語らせてくれ。
そもそも修君の目的である「千佳ちゃんを守る」というのはボーダー隊員になった時点である程度達成されていると思います。
いくら修君が弱かろうてトリオン体を手に入れれば敵に対抗することはできる。うん。できる...できる......はずだ。
しかし物語の広がりには少し弱いかもしれません。
そこに本人ではなく、他の主人公である千佳ちゃんと遊真の願いを持ってくることで物語に広さと深みを持ってきたのは「なるほどな」と思いました。
「ぼくがそうするべきだと思ってるからだ」の呪い
修君は麟児さんに千佳ちゃんを頼まれたことで防衛隊員になることを決意し、動いていきます。
彼の恐ろしいところは頼まれた後は全て自分の責任かのように背負いこむところです。
いや何故お前が?と言いたくなる。何故お前が?
修君があまりに必死すぎてたまにこう思うのです。
「なんでこの子はこんなに必死なんだろう?」
そしていつの間にか「麟児さんたちを探しにいく」という目的が修君の願いかのように錯覚してしまいます。
初見時なんか引っかかって、「そういえばこのメガネの子の原動力は何だ?あれ、大きな目的はそんなに無いよね、何を目的とするんだ?」と思ってたらこの違和感こそが修君の歪さを表していました。怖いよ。
「ぼくがそうするべきだと思ってるからだ」
この台詞は修君の代表的な台詞ですが、捉え方によってはとても独善的です。
「ぼくが」と主語を自分にして、他者の願いや目的も自分で自分事にしてしまうのです。
「いやいやお前じゃない」と言いたくなることでも「ぼくが」と言う。
なんでだよ!!
物語の主軸の目的すら背負い込んで自身を顧みない。東さんが懸念した点がここだと思います。
アンバランス。ここが彼の歪さを表しています。吸収しなくても良いことまで吸収して、そしてそれを本人は良しとしている。
しかしこれこそが彼を「ヒーロー」と思える、主人公たらしめている台詞だと思うのです。
裏方寄りの彼が表舞台に進み出てきています。歪だなぁ。
世界は救わない、分をわきまえている目標
ワートリって変なところで現実的だと感じます。
千佳ちゃんの願望である「兄と友人を探しに行く」。この目標を知ったときに「分をわきまえている目標だな」と思いました。
なんていうか、ギリギリ自分達でも達成できる場所でゴールを設定している。
千佳ちゃんの目標は言ってしまえばマイナスをゼロにするようなもので、ゼロからプラスにするような目標ではないのです。
居なくなった人を探す、以上。
千佳ちゃんの目標が達成されればワートリの世界にプラスに働くか?と問われたら別にそうではないわけです。
その後も敵は攻めてくるだろうし、防衛任務も続くだろうし三門市は変わらない。
例えばこれが別の少年漫画なら「攻めてくる近界(ネイバーフッド)の敵のボスを倒す」「近界民(ネイバー)が入ってこれないように世界を変える」とか「世界や人々を救いたい」など、その世界の根本的な原因を解決する壮大な目標があっても不思議ではないでしょう。
ですがワートリは、ある種の陳腐な世界平和を目指している感じでもない。攻めてくる近界民を排除するだけ。あくまでも防衛。
『鬼滅の刃』のように「妹を人間に戻す」という個人の目的を辿っていき、その道がラスボスに繋がっていく、という展開になるのかなとも考えられます。
しかし二五巻も出ているのにまだ全容は見えません。ここが見えない限りは「手が届く範囲である」と捉えられます。
太刀川さんや風間さん論じゃないけど物語の主軸も『分をわきまえている』『戦力差を分かっている戦い方』、少し控えめになっている印象があると感じたのです。
別に近界民撲滅を目指している訳ではない。完全に敵描写をしている訳でもない。
これは旧ボーダー、玉狛支部の意志である「近界民とも仲良くしようぜ」主義が影響しているからだと感じます。近界民のネイバーって英語で「隣人」の意味だしね。困ったお隣さんもいるのよね、の感覚か?
「助ける」とは言わない千佳ちゃんと修君
このね、千佳ちゃんの願望も「兄さんと友人を探しにいく」って言い方も面白いんですよね。
「助けに行く」とは言わない、「探しに行く」と言う。
友人なんて拉致されているのだから「助けに」と言っても良い気がするのですが「探す」と言って敵対するワードを使わない。
そしてもう一つの事例は、何事にも頭を突っ込む修君が「遊真の命を助ける」という主旨の話をしません。
「早くレプリカに会わせてあげたい」とは願うけれど「空閑の命を助けたい」とは言わない。まだそこまで自分ではできないと分かっているからかもしれません。
迅さんに「早く遠征してあいつをレプリカに会わせたい」と吐露するシーンでは「あいつの命を救いたい」とは言わないのかと少し切なくなりました。
そこは言え──!言えよ────!!!泣
千佳ちゃんが「助ける」と言わないのは作品の中での近界民の微妙な立ち位置、思いやりを感じられます。
一方で修君が「助ける」とは言わないのは自分の手が届かない範囲だからかもしれない。
同じ「助ける」の言葉でも背景の意味合いが違うのが切ないです。
前回の記事で「ワートリは現時点の時間軸を大切にしている」と書きましたが、未来すぎる部分は描かない、現時点でのできること、やるべきこと、やれること、キャラクターの心情を重視する。こういったところにもその意図が感じられます。
必要になる瞬間まで手札は見せない、このスタンスが憎いのです。
同じ秀才、されど毛色の違う木虎ちゃんと香取ちゃん
ワートリには多くのキャラクターが登場します。
この作品は典型的な群像劇で、各々の価値観や視点を味わえるのがすんげぇ面白いです。
例えばね。
私が印象的だったのは一五巻にあるガロプラ戦での木虎ちゃんです。
「あなたが失敗したんじゃないわ、むこうが対応したのよ」
これは敵(ヨミ君)に攻撃パターンを読まれて負傷した黒江ちゃんに向けた台詞です。
私はこの台詞をアニメで初めて聞いたときは「なんて視野に富んだ台詞だろう」と驚きました。
木虎ちゃんすげえなと思ったとこ
敵(ヨミ君)の視点を持ち、相手が「対応した」と察し、更にこちらも「その対応の対応をする必要がある」と理解したこと
→これが「だめよ双葉ちゃん、落ち着いて」の台詞に繋がる失敗ではなく「対応した」という言葉選びがうまい
→失敗だと思わせない気遣いと相手目線で物事を見れる冷静さ
この台詞を聞いて修君が言う「木虎は凄い」の説得力が増し、あぁこの子は本当に秀才なのだと納得がいきました。
主観、客観、戦況を俯瞰し見極められる。君は本当に十五歳か?
ではもう一方の秀才も見てみます。
女性キャラの中で私の最推し、香取ちゃんです。もぎゃああ。
「どれが『適当』でどれが『適当じゃない』のか、アタシにはわかんないから」
二三巻のB級中位最終戦での台詞です。
この台詞を初めて見たときも唸りました。
あぁ〜〜〜そうだよなァ、これが才能ある人間の視点だよなァ!
『できる』人って、できない理由が分からない、何故できているのかも分からないことがあります。
例えば、凡人の私だと若村が言う「(自己判断で)適当に動く癖をやめろ」の意見にそうだよねと頷きます。
しかし香取ちゃんには「どれが適当でどれが適当じゃないのかわからない」と言う。この意見に思わず頭を抱えました。
若村の発言はとても普通なんです。私もそう思った。
でも香取ちゃんからしたらそうじゃない。この認識の違い、この差こそが二人の実力の差を表しているのだと読者は静かに悟ってしまいます。
木虎ちゃんと香取ちゃんは同じ秀才でも毛色が違う秀才です。
木虎ちゃんが論理的に己の才能を認識しているのに対して、香取ちゃんは己のセンス一本で成り立たせています(故にムラもある)。
センスも言ってしまえば知識と経験の集合知でもあるのですが、香取ちゃんはその自覚がない。感覚でできてしまう、故に自分でも理解ができない。
同じ秀才だけどこの違い。
しかし凡人からすれば一律に才能のある人間と言えます。
この秀才という属性を与えつつ、毛の太さや色味を変えて成り立たせるキャラの作り込みが面白いのです。
これぞまさに群像劇。
群像劇として幾多の価値観、視点を描くのがうまい
天才ならどう思うか、秀才ならどう思うか、凡人なら、努力家なら、怠け者ならと。
原作者がキャラクターを描いているというよりも、本当に木虎ちゃんならどうするか、香取ちゃんなら、水上先輩なら、菊地原先輩ならと、キャラクターが原稿に住んでいるかのようです。
勝手にキャラクターが動いてるよね?
絶対そうだよね?
分かるよこのキャラこういうこと言いそうだもん、と素で思っちゃうのです。
原作者が描いているのだから解釈違いなんてあるわけないと分かるのですが、「マジで解釈一致です」と思わず唸ってしまうのですよ。
これを一人の人間が描いているのか?
何人分の人格と価値観を見据えているのか?
本当に意味が分からないです。
色んな視点とそのキャラの性格を考慮してそれぞれが行き着いた発想を考えるの、すんごい大変だと思うしやっぱり先生は凄いなという感情に帰着します。
弱さも負けもすべて肯定して「さぁ、次はどうする?」
ボーダーのランク戦や個人ポイントなど、全てに於いて数字・順位を可視化して競わせるシステムがまんま営業会社の社内競争のように思えます。
正直初見は「うへぇ....」と苦手な感じがしたのですが、ワートリは競争の嫌な部分、嫉妬や憎悪、引きずり下ろしなど私怨は描かないので別の意味で驚きました。
あ、あれ、妬みシーンがないぞ!?みたいな。
競争もので感情が大きく揺らぐ「負け」など「負の感情」を描いた方が物語にメリハリがつくので、その描写をする作品が多いです。
ですがワートリはそうではなく順位が丸わかりでもその改善策を講じる部分にフォーカスを当てるので、嫌な感じがしないのがこの作品の稀有な部分かと感じます。
だってさ。
臨時部隊の隊員指名制なんて自分がやられたら最高に嫌なシステムですが、ある意味淡々と描かれてる。別の作品を読んでからワートリに戻ってくるとその落ち着きにビックリします。
もっとみんな嫌な顔しようぜ!?
「ワートリが重きを置いて描くのはここじゃないんだ...そうか」と驚く。
なんというか、弱さも負けもすべて肯定して「さぁ、次はどうする?」と問いかけてくれる作風が優しいです。
「落とされて学んでいくのがランク戦の存在意義だ」と言った風間さんの言葉が作品の空気感そのものに感じます。
敵も含めて根っからの嫌な人があまり居ない。
敵だとしてもみんな何かしら信念があって行動に理解ができます。
ボーダー内部で思想や派閥が違っても、ランク戦でボコボコにされても、いざという時の防衛任務や日常生活で仲良く友達してるのはこの作品の素敵なところです。
私ならランク戦で首チョンパされたら絶対根に持って恨み節言うからな。
心は赤ちゃんやからな!
君らほんまに十代か!!???
ランク戦でバチバチに順位を競うバトルを繰り広げるけれど、上位が下位を見下すような言動やあまり汚い言葉をみんなしないのも好きです。
口が悪いキャラの代表格だったエネドラも今ではマスコットですよ。推せる。ずっと映画観てて。
もちろん高圧的で厳しいことを言う人もいるけれど、それは甘さや未熟さを諭す言葉であって成長を促すことを目的としているのでストンと腹に落ちます。
二宮さんを一番最初にアニメで観たときは「こいつとんだプライドエベレストやな」と思っていましたが、後々の天然さを知ると「まさたか君(20)......」と愛おしく思えてきます。
二宮さんについては五時間くらい語りたいことがあるのですが、いまはやめておきます。
この作品は奇跡が起こらない
ワートリを知らない人に「ワートリってどんな作品?」と聞かれた時、「バトルものだよ」と安直な説明をしたくない、だけど何を言えばいいのかと何度か唸った後。
「良い意味で奇跡が起こらない作品です」とよく分からない感想しかでなかったことがあります。
ピンチの時に潜在能力が開花とかないです。えぇ、普通にやられます。
アフトクラトルの大規模侵攻編でA級上位の出水先輩や緑川君が敵の前でベイルアウトで撤退するシーンは初見時は正直呆気にとられました。
「俺が死んでもこいつを止めてやるぅ!」の展開になれていた私からすると「な、なんかあっさりしているな?」と感じたのです。
ですが逆に言えば「感情論や根性論で攻めていかない」「退く時は退く」「不要な戦力は投入しない」と潔さや判断の基準がとても現実的だと思いました。
「戦いは数の多い方が有利だ」など戦いのセオリーを何度も繰り返し、「でもどうせ少年漫画マジック起きるんでしょ」と待ち構えている読者に「そういうのは無いです」と釘を刺してくれるのがワートリです。
全て伏線があり、布石がある。
いやいやいやいや、そんなわけ.....……..なん….だと?(遅効性)
このような部分から「この作品はちょっと他と違うかもしれんな」と興味を持つキッカケとなりました。
ワートリ界のアルティメットウェポンであるブラックトリガーでさえも過信せず、勝つ時は勝つ、負ける時は負ける。
「勝負が決まるのは戦力・戦術・あとは運だ」
だからこそ練習試合であるランク戦でここまで面白くなれるのだと感服します。
奇跡が起きず、ひたすら実績と経験を積むためにトライ&エラーを繰り返して学んでいくのがボーダーであり、それがワートリが醸しだす現実(リアル)です。
この奇跡が起きないからこそ、作中で成長していくキャラクター達に共感と応援を抱き、作品に対するある種の信頼感と魅力を感じられます。
この作品は奇跡が起こらないからこそ読者を裏切らない。
そしてその度に読者は「また描かれているシーンしか知らされていなかった」と強く感じます。いつも思うけどなんなんだこの敗北感は。
本当はもっと他にも語りたいことがあるのですが(二宮さんとか二宮さんとか二宮まさたか君とか)、そろそろ私のトリオンが限界なのでここまでにしようと思います。
この記事を読んだ方がもう一度コミックス読み返したり、アニメを観て面白さを反芻して楽しんだり。
またはワートリをまだ知らない、原作未読の方がコミックスを手に取って頂けたら一人のファンとして嬉しく思います。
少しでもワートリの面白さをお伝えできたのなら嬉しいです。
ありがとうございました。
<戦闘体活動限界 ベイルアウト >