認識をめぐる対話

A.「ものごとを見ること」と「学問すること」がどう関係するのか。
B.「こう見る」というやり方を決めることで、学問が始められる。対象がなければ考えることができない。つまり学問は、対象の認識と理解の過程を決定する(決めつける)ことで可能なものになると言える。
A.では、学問は決めつけに溢れた世界なのか。
B.そうだ。ただし、私たちの生活そのものもまた、決めつけに溢れている。先ほども言ったように、「こう見る」というやり方を決めずに何かを考えるのは難しい。
A.その決めつけのことを、私たちはなんと呼んでいるのか。
B.観念や解釈と呼んでいると思われる。意味が与えられた対象はみな決めつけられている。
A.それら決めつけは悪いものなのか。
B.よいとも悪いとも言える。というより、ものごとの良し悪しを決めるものが「決めつけ」である。
A.決めつけること自体の良し悪しを問うことはできるか。
B.できることにはできるだろう。ただし、その問いによって良し悪しの判定がついたとしても、その判断自体の良し悪しが問われることになり、この問いは永遠に繰り返されると思われる。
A.それはできないということではないのか。
B.それは違う。「良し悪しを問うこと」と「答えを出すこと」は一緒ではないからだ。答えの出ない問いを立てることは可能である。
A.では、悪い決めつけを減らすためにはどうしたらよいのか。
B.それは分からない。ある決めつけの悪さを考えるには、判断材料となる「状況(文脈)」が必要となる。何もないところで窃盗罪について考えることが難しいのと同じように、対象がなくてはその良し悪しを考えるのは難しい。
A.では、対象にされていなかったものが対象になり、良し悪しが判定できるようになるとすれば、それは対象になる以前からそのような良し悪しを持っていたと考えることはできないのか。
B.それは違う。対象の良し悪しは、対象化されて初めて判断されるものである。
A.では、その判断の根拠は、その時の状況に由来するのか。
B.そうだ。
A.その状況とは、どのように私たちに与えられうるのか。
B.正しく言えば、それは分からない。状況とは現実の場であり、感覚によってのみ与えられるものである。状況を記述しても、それは正確に状況を再現しうるものではない。
A.では、そういった状況に出会ったときのために、良し悪しの基準を自分で持っておきたい場合は、どうすればよいのか。
B.それは、これまでの経験と思考に基づく、仮の決めつけを持っておくほかないのではないだろうか。
A.ではそれが、私たちの持つ道徳なのか。
B.そうだ。
A.先ほどのように、よいことをするためには対象が必要だとして、その対象(道徳的対象)は、認識されることで初めてその道徳性が与えられるのか。言い換えると、その対象が道徳的対象になりうるかどうかは、認識されることによって初めて判断される(決めつけられる)のか。
B.認識されることによって初めて、道徳的対象であるかどうかが分かる。
A.では、助けを求めているが、私たちが認識していない人がいるとして、その人は私たちにとっての道徳的対象にならないのか。
B.そうだ。ならない。
A.果たして本当にそうだろうか。もし気づくことができたなら、その人は私たちにとっての道徳的対象となるはずである。それは、単に私たちがその対象に気づいていないということではないか。要するに、対象に関わる道徳性は、認識の有無に関わらず存在するのではないか。しかし、こういった問いは永遠に繰り返されてしまうと思われる。私は世界の外部にも意味があると考えるし、あなたはそうではないと考えている。この対立は、どう考えればよいだろうか。

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