心の原風景
自然が豊かで、これまでに訪れたことのない土地に行くのが好きなので、このところ休日は地図を眺めては気になった所に足を運んでいる。
ただ旅というには毎回内容が薄く、その土地に訪れるだけで、やることと言ったらせいぜい温泉に入るか現地の美味いもんを食うか、あとは景色を眺めるくらいなので、我ながら計画性が無くて旅下手だなぁとは思っている。
が、それでも懲りずに次はどこへ行こうかスマホで地図を眺める日々。
旅に出るのが好きな割に、綿密に計画を立てるでもなく、いつもただ目的地を決めて向かうだけ。あとは行き当たりばったり。
そこで最近ふと考えた。
自分は出掛けることに何を求めているんだろか。
何故に見知らぬ自然豊かそうな土地に行ってみたくなるのだろかと。
いくつかハッキリしている答えはある。
1・単純に運転が好きなので、運転席から景色を眺めるのとその行程自体が楽しみ。
2・山も海も無く、木々も少なく流れる水はどこも茶色のきったねぇ街で生まれ育ったので、緑と青の豊かな地に心惹かれる。
3・2に加えて、人も多く常に電車と車の音が聞こえる騒がしい環境だったので、静かな地で心を落ち着かせたい。
4・非日常を感じたい。
これらを求めているのはわかってる。でもどうもそれだけじゃ無い。
旅をして1~4までを満たしても、何かが欠けていて物足りない気持ちで帰宅することもよくある。決して楽しくなかったわけではないんだけども。
・・・改めてこうして旅について、その目的を意識して考えてみると、ぼんやりと求めているものの輪郭が浮かんできた気がした。
「コレよ!こういう所なんだよ!」と、心に何かのピースが埋まってハッとするような、琴線に触れるようなあの感じ。
多分自分は「心の原風景」に近い場所、もしくはそれになりうる場所に行きたいんじゃなかろうかと。
原風景って人それぞれだろうし、明確な定義があるわけでもないと思うけど、自分の中にもそういう風景は確かに存在してて。
それはどれも過去に訪れた場所の、他人から見たらきっとなんてことはない一コマの風景で。幼少の頃の記憶もあるし、大人になってから行った場所の記憶もあるから、単純に遠い記憶の懐かしさだけでもないみたい。
心の原風景は、きっとその人だけにしかわからない、その人だけにとっての特別な風景なんだろうね。
で、まあそこまではいいとして、じゃあ何でそんな原風景を求めてしまうんだろうかと。そんな風景に出会って、「あぁ~これだよこの感じだよ!」って感情を味わいたくなるのは何でなんだろう。
懐かしさを感じて、その当時の楽しかった記憶を思い起こしたいのもあるんだろうけど、どうもそれだけじゃないような気もするんだよね。単純にその風景がキレイで感動したから、とかでもない。
まぁそれ以上考えても答えは出なさそうだし、別に原風景を追い求める理由を深堀りする必要も無いか、とも思う。
「心の原風景を求めているのではなかろうか」ということに気づいただけでも、これからまたどこか出掛けた時は、何気ない風景でも今までとは違った視点で眺めることが出来るんじゃないかなーと。
・・・というわけで、つい先日も地図を眺めて「おっ、ここはどうだろ?」って思った場所に行ってみた。
福島県は南会津の大内宿。
ついでにその近くにあった塔のへつり。
・・・うーん、違う。
グーグルマップで見て、山に囲まれた宿場町だったことに心惹かれて行ってみたけど、違うね。
いや、いいのよ、歴史を感じる宿場町。このままの姿で後世に残していこうという姿勢も素晴らしい。散策してて楽しかったよ。周りを囲んだ山々と田園の風景も良かったよ。立ち寄った茶屋も良かったよ。店員のお姉さん超可愛かった
そして一番の胸キュンポイントは、この宿場町の通りの両サイドに流れる小さな水路。水がすげぇ綺麗だったのよ。
自然の多い土地に住んでる人にはなんてことないのだろうけど、水路=ドブのような環境で生きたアタイには、小さな水路に流れる水がキレイなだけでハートが射抜かれちゃうのよ。ああ、手足を突っ込みたい。絶対冷たくて気持ちいいはず。でもおじさんだから恥ずかしい。
歴史を感じる風景よりも水路にうっとりするってどうなんだろうね。
あと奇岩は・・・うん、まあ。
・・・ていうか、これじゃただの観光地巡りやんけ。
楽しいは楽しいけど、なんとなく物足りなさを感じた。やっぱり心の原風景なんよ。
これが足りないんよ。
なので我が心を震わす風景を求めて、また近いうちどこかに行ってみようと思う。