自分を認められない、という病。
去年の4月から取り組んできた、キリスト生誕劇が昨年末に終わりました。
それからずっと心身の調子を崩して、お正月の賑わいも避けて、ずっと内観しながら暮らしております。
気持ちが最終的にどのように落ち着くかわからない中ではありますが、ちょうど今日は一人の時間が長くとれたので書いてみようと思います。
演劇が終わった後は、高揚感や達成感や充足感に包まれて、とても幸せな気分になるんだと思っていました。
しかし、実際のところは、心が空虚で、からっぽで、感動などとても通り越して、空洞でした。半身が持っていかれてしまったような脱力感で、ほかの演者さんの感動を邪魔してはいけないと静かにしていました。
でも書いちゃうよー。ごめんね。
自分はガブリエル役でしたが、本当によくない出来だったなと、終わった直後は落ち込みました。
女性性が強めの天使だったのに、雄々しく中性的な表現になったからです。
練習時からたびたびそのようになっていたので、いつも訂正されていたのに、本番は全力で男性性をほとばしらせていました。
それが本当によくなかったと思っています。全体の質を変えてしまうまでにはならなかったとは思いますが、自分としては。
ほかの演者さんは素晴らしくて、ヨゼフとマリアの夫婦愛や、羊飼いたちの掛け合いも、どれも感動的でした。星の歌い手役は中学生の女の子でしたが、彼女がいるととても心強く、全体の支えになっていたと思います。
子どもたちも、衣装から花冠から愛らしくて、本番もばっちりでした。
もっと自分を抑えて、周りを引き立てるべきだったのに、我を張りすぎた。
演技中、わたしがわたしがと主張しすぎて疲れてしまいました。
私は本来我が強く、でもその強さに一番自分が参るので、摩擦を避けて生きてきました。できるだけ控えめに、目立たず、穏便に、淡々と生きていきたいと思っていました。
どんどん小さく、自分が傷つかないように怯え、おとなしく暮らしていくことを選び、そのような現実が表れていたと思います。でも結果的に、自分で選べず他者に依存的になっていました。
今の生き方を気に入っているかと問うと、決してそういうわけではないから、演劇を始めてみたり、読書会をしてみたり、生来の我の強さをそこここで表してしまうのでしょう。
それなら、本来持っているものの通り大胆に生きればいいのですが、非常に傷つきやすい、という相反する性質も同時に持ち合わせているのです。
ぐらぐらとした崖っぷちを必死でバランスとりながら生きている気分です。
生誕劇、よかったんだけどなぁ~、素直に喜びたい。
そのあと三日かけて大掃除しましたが、綺麗になると素直に喜べました。
演劇は、何をどう喜べばいいのかわからないところがあるんですよね。お客さんや他者の声が、全部ダメ出しに聞こえてしまうし。どうしてかなぁ~、どうやったら自分を認められるんだろう。
ぶさいくでババアの私が何をしたってなぁって思っちゃうんですよね。ルッキズムの悪夢に取りつかれているんでしょうね。すごい固定観念。
この、自分を認められない病、本当に深刻だな、やばいなって、終わってからすぐに思ったのはそれです。
ここまでやっても、こんな風に自分を痛めつけてしまうんだな、と。
しんどくてしんどくて、一番迷惑をかけているのは家族ですね。ただ一言、しんどいといえたらそれでOKなはずなのに、すごく遠回りをしています。
そう思えるぐらいには、一生懸命頑張ってきましたから、そこは認めてあげたらいいと思うんですけどね。
でも実際は、大きなものを生み出して、心身ともに本当に疲れてしまいました、というのが一番かもしれません。
疲労がピークだったので、正しい評価が出せなかったのかも。
回復すれば、あれはあれでよかったって思えるだろう。
ただ今は、エネルギーの大部分をごっそり出し切って、まだ当分埋まらない感じです。その空いた部分に最初は「お前はだめな奴だ。何をしても認められないダメな人間だ」という評価を入れてしまったので、さらに痛めつけてしまいました上、年末年始のバタバタで混乱の極みでしたが、お休みを頂けたので、ちょっと落ち着こうと思います。
2019年はそんな底辺からの始まりになりました。きっと上昇していけるでしょう。いやそうなるようにしていこう。
でもでもだってが一番よくないし、周りも面倒くさい。単純に、自分を認めないことで他者からの評価を欲しがり、でもそれが欲しい評価ではないと腐ってしまうという、依存状態なんですよ。面倒くさいやつです。
素直になろう。素直に。うん。
本年も、世界中に幸せなことがたくさん起こりますように。