空について。 ー空に至る道8-
排水溝が汚れていたので掃除していていたとき。
本当の綺麗な状態ってどんなんかなぁと考えていた。
たくさんの菌があって、調和している状態がそうなんじゃないかな。
だから、水なら少し濁っているくらいかな。
うちの排水溝は、ねっとりしたものはつくけど、臭いはない。
これが本来の、綺麗って状態なのだろう。
わたしたちはもしかしたらとんでもない勘違いをしていたのでは。
綺麗なのは何もないってことじゃない。
そんな無菌状態は、乱暴なたとえをするなら、戦争や爆撃で何にもなくなった土地と同じといえるだろう。
それは悲しすぎる。
だから、悟りに至る「空」の境地っていうのも、同じなのだ。
空って書くんだから何も感じなくなるってことが大事と勘違いしてしまいそうだけれど、でも全然逆なんじゃないか。
空の何もないところで生きていたならそれでいいけれど、わたしたちは肉体という物質の世界で生きているんだから、常に何かを生み出している。
だから、わたしたちにとって「空」とは、ただ感じたことを感じたままに生きるってことなんじゃないかな。
瞑想とは、こころで沈黙することではあるけれど、そうして聞こえてくるのは、自然な音、身近な存在のぬくもり、そういった諸々、生命のすべてなのだから。
それを「でも」って押し曲げて、蓋をしてしまうこと、我慢すること、耳を閉じて聞こえないふりをする方が、エゴじゃないか。
ただ感じたままでいられるなら、「空」すなわち「神」のこころ。
感じたことから一ミリでも心を動かせば、「人間」のこころ。
だから、神々は無邪気なんだわ。
怒りは怒りのまま、悲しみは悲しみのまま、喜びは喜びのまま、楽しさは楽しさのままに抱いて生きるということ。
それが、わたしたち本来の姿なのだから。
逆に、何もなかったことになんて決してできない。どれだけごまかしても、いつか暴かれて「空」に至るのだから、そこに至るまでのどんなプロセスも、結局は、生きていることの証明なのだ。
それが自然の仕組み。たった一つの確かなこと。
私が自分の気持ちをわからないわからないと七転八起しているさまも、まさに生きている感じがする。
やっぱり、全部ハナマルだわ。