今日も一日ありがとうね、○○愛してるよ。
夜寝る前に家族に言ってます。○○には名前が入ります。
膝の古傷が痛み出してジョギングはほぼ中断しているし、水虫もまた出てきたので、酵素水と塗り薬を併用しているし、ここに鼻息荒く書いたものの、すぐに放り出すわたしですが、この挨拶だけは続けています。挨拶する前に子どもたちが眠ってしまった日はできないけど。あと、起きてからのぎゅっ。
これをしようと思ったのは、長女が2歳くらいの頃、産後ストレスからか知らないうちにホルモン系の病気を患っていて、どうにも感情が定まらず、直ぐに怒ってしまうので、子どものことを愛しているのに自分の怒りのせいでそれが伝わらないのはいたたまない、絶対に愛していることをしっかり伝えるんだと思って始めました。
二人目妊娠を期に病気がわかって、その時はすでに寛解していたので、今では懐かしい話です。
それをわざわざ書いたのは、気付いたからです。私はこの挨拶を通して、家族に対してだけではなく、今日出会った人、今日思い浮かべた人、全員に対してこの宣言をしているんだということに。
怒りやすさがまず根本にありました。この怒りとの向き合い方はわたしにとって長年のテーマでしたが、一時の怒りで子どもを振り回すのだけはしたくないと思っていたし、長女は常に「ママは何故怒るのか?」と尋ねてくるので、毎回何故怒ったのかを考え続けていました。
HSPを知るまで、わかっていませんでした、この怒りやすさが、わたしが受け取る情報量が多いあまりに一杯一杯になって心が疲れていることが原因だったなんて。
ひとそれぞれ、考え方が違うものだと理解しているつもりでしたが、物事を見て感じる量も違うのだということを初めて知りました。
人が話すしぐさや声の質や表情から、話す内容そのものよりその人のこころの内をとらえてしまうので、そちらに気を取られて話していることがよく分からなくなることがあります。そして相手に過剰に合わせようとしてしまうのです。それが真実か思い込みかもわからないまま。
そんなこんなでいつも混乱していて、こころの中は嵐でした。
受け取り方は様々でも、みんな同じだけ受け取ってるのに、自分だけ処理できないで疲れてるのはおかしい、ダメ人間だと思ってました。
でも、受け取る量がそもそも違ったんだなぁとわかってから、すごく心がほっとしてます。
今年はほんとにいろんな人に出会い続けていて、PTA活動含めて、自分から始めたことを通して、新しい出会いや、懐かしい出会いがたくさんあります。人と会うたびに、無理にテンションあげて、元気なちはるさんを演じていましたが、そういう余裕もないほど人と会うので、だんだん疲れて地が出てきました。おとなしくて、怯えやすくて、臆病っていう地が。
でもその方が人と楽に話せる気がします。自分が無理をすれば、相手にも無理を強いてるんですよね。被害と加害の構造です。
人とたくさん出会って思うのは、本当に一人一人が違うということ。
一人一人、懸命にその人の人生を生きていて、同じ人などだれ一人いないということ。
あたり前だと思っていたけれど、実際に出会うことで実感して、なんか、すごいな、人ってすごいなって感動しています。
違う存在の二者がいることで、中和作用が働いて、そこにエネルギーが呼び込まれる。だから決して、同じ存在というものはない。出会いはかけがえがない。ありがたいとは、類まれなる存在であるということ。誰もが。
だから、今日も一日、出会ってくださってありがとうなのです。
だから、わたしも類まれなる一人として、幸せになっていいのだということです。
ちなみに、左の曼荼羅は、今日娘が腹痛を訴えて学校を休んだので、「お腹が治りますように」って思いながら描いた曼荼羅です。丸山修寛先生のクスリ絵という本を友達から貸していただいたのをきっかけに試してみました。
結果は、一応治りました。絵でも音楽でも、どんなことも特別な誰かのものではなくて、等しく誰しもが発揮できる能力なんです。だから、自分が好きなことをすればいいんです。だってそれが自然の法則だから。
たった一つの自然の法則。それは出したものが返ることです。
人だけではなくて、自然を見る。
人が違うのは当たり前、そして、人という小さな体のままで分かることもそれほど多くない、だからもっと大きく、自然そのものを見る。
という啓示を、今朝に受け取りました。
人との違い、普通であることにとらわれ過ぎていたわたしから、一歩踏み出せたのかなぁと思いました。