続、自分を認められない病。
ぶさいくでババアの私が何をしたってなぁって思っちゃう、ルッキズムの悪夢に気づいて、どんどんいろいろ考えてしまうので、続きを書きます。
自分みたいなのじゃなくて、もっときれいな人が天使をやったほうが良いのに、我を張って演劇なんかしちゃうもんだから、こんな風に自業自得で落ち込むことになるんだよって思ってました。
考えてしまうのはやっぱり親のことです。
いい両親だとは思っていますし、育ててもらった感謝もあります。
でも、ルッキズムの悪夢や、ダメ出しや、固定観念の出どころも、親や社会の影響でしょう。
もうちょっと目が大きかったらとか、髪の量が多かったらとか、痩せていたらとか、言われて育ってきましたし、結婚して出産するのが女として生まれた喜びだといわれ続けてきました。親の期待を満たせるよう、一生懸命努力してきたつもりです。だから、家庭を守るとかは自分を認められるけど、演劇とかは全然ダメなんだろうな。
親は練習している間も終わってからも、特に評価はありませんね。どう思ってるのか、怖くて聞けません。
親からすれば、私の将来を思って、ああすればこうすればと、いろいろ教えてくれたのでしょうが、その結果、自分で選べないし、どこからが親や社会の価値観で、どこからが自分の価値観なのかわからなくなってしまいました。
愛してくれているとは思いますが、自分を認めてくれていると思えたことはありませんね。ちはるは安心させてくれるとはよくいってもらえます。
安心させることが子どもとして生まれた自分の役目だとずっと思ってきました。親が満足するように、親の求めるとおりに動くことで、親からの愛情を返していたつもりです。
子どもを産んでから、何事もお伺いを立てている場合ではない、自分で選び自分で考え自分の足で立たなければと気づいてから、いろいろ試行錯誤してきました。親からは、ちはるは変わったといわれ続けてきましたね。
しんどいです。認めてもらえないのは。
認めてもらうという経験がないから、自分を認められないのかな。
でも、もういいかな。まず自分から自分を認めないとな。
もっとしんどいのは、自分がないことですから。
今の社会で、母親として生きるのは業が深すぎると常々思ってきました。一生懸命頑張っても、子どもの前で感情をむき出しにしたり、夫婦仲をこじらせて、子どもを傷つけてしまうと、母親が全部悪いといわれるからです。
それはその通りなんですけど、普段めっちゃ頑張っても、台無しで、何をやっても、最終的には母親のかかわり方が子どもを歪めるといわれると、もういっそ消えてしまいたいと思えます。
自分を見ても、母親は確かに大きな存在で、いまだ支配されている気分ではあります。そこから自分は脱したいともがいています。そしてわたしは本当にまっとうではないので、十分なお世話もできないし、そんな風にコントロールする母親にはなれないと思っていますが、何を発しても行っても、結果的に子どもをコントロールすることになるんだと思うと、ひたすら恐ろしいです。
年末に、子どもの脳をゆがめる母親の接し方という記事のタイトルを見て、死にそうなほど落ち込み、もう本当にダメだと思いました。
何をやっても母親の失態が子どもの脳をゆがめるんだってさ!!どれだけ愛情をかけているつもりでも!!
と、泣きわめいて、結果的に子どもの脳をゆがめたでしょうから、すげー面倒くさい親だし妻だし女ですね。
なんか笑えて来た。書くっていいですね。隠さずぶっちゃけよう。
わたしは本当に面倒くさい性質を持っていて、一応LGBT当事者なので、わたしがLGBT当事者だったらどうする?と母親に聞いたとき「戦わないといけない」と言っていました。戦わないと…ってどういう意味なんだろうって今も思います。
親の束縛から逃れるために結婚したのか、親の期待に応えるために出産したのか、それとも自分の意志ですべて選び取ったのか、何が何だかよくわからなくなることも多々あります。
何のために子育てをしているのか、社会繁栄のためですか。そんなにこの社会はいい社会ですか。繁栄のために貢献しているにしては、恩恵が少なすぎる上に、支援制度が不十分だと思います。
生産性がないといわれるLGBTなのに、出産までして子育てしてるんだから、もっと褒めてもらってもいいと思う!
かわいそうななのはパートナーである夫さんと子どもかもしれませんね。夫さんには一応全部話していますが、忘れっぽいので覚えていないかもしれません。非常にありがたい存在です。
そうですね、家族はこんな私を見捨てないで関わってくれる、非常にありがたい稀有な存在です。大切にしないとな。でも時々一人で過ごしたい。
素直にやりたいことやってみよう。
結局、期待に応えるだとか、自分を犠牲にするだとか、子どもの脳をゆがめる子育てだとか、結婚も出産も、パートナーだって、全部全部、自分が選んでしてきたことです。どれだけ苦しくみじめでも、時に幸せで満足でも、全部選択の結果です。意識のありようです。
それがそのようにしてあるのです。
だから、自分を認めるには、他者に依存している自分をまず認識して、その自分を受け入れることです。理想像など作らずに、まずはこれでいいんだって思ってみます。もっと意識の進んでいる人たちは、こんなこと気にせずに、もっと広い視野で、自然と調和して生きているだろう。けど今はちょっとそこにはいけそうにありません。理想の通りに生きるのは、だいぶ疲れています。
一進一退ですね。あっという間に煩悩だらけ。
意識の幅を広げることかなと思います。無意識の層を減らし、メタ認知できる部分を増やす。大学で専攻していた認知心理学が役立つわぁ。
人生に無駄などありません。この世に無駄なことなど、一切ないのです。
全て諸行無常です。
しっかり休んで、己自身をエネルギーで満たしていこうと思います。
ちょっと元気出た。書くっていいなぁ。出さないとエネルギーはいらないもんな。
それでいえば、演劇でめちゃくちゃエネルギー出し切ったので、めっちゃ入るはずです。出しすぎると器が空っぽになるので、底に沈めてある自分の闇と対峙せざるをえない。
闇は深いかもしれないけど、割とシンプルだと思いました。抱えているものは、きっと今まで通り同じものです。
その更に底には愛がいっぱい詰まっているんでしょう。
読んでいただいてありがとうございました。