
鉢の子にすみれたむぽぽこき混ぜて 良寛[仏教百人一首]7
写真は京都嵯峨の広沢池
「歌でたどる日本の仏教」の続きです。
【良寛】1758〜1831年/僧号は大愚良寛、俗名は栄蔵。良寛は出雲崎(新潟県)の廻船問屋に生まれたが、22歳で出家。弥彦連峰国上山(くがみやま)山麓の五合庵(ごごうあん)など、出雲崎周辺の草庵に暮らす。歌集『布留散東』、詩集『草堂集貫華』、詩偈集『法華転』『法華讃』などのほか、晩年の島崎草庵の時期に訪れた貞心尼(ていしんに)と交わした歌集『はちすの露』がある。
鉢の子にすみれたむぽぽこき混ぜて
三世のほとけにたてまつりてな(『阿部家横巻』)
「鉢の子」と愛おしくよぶ托鉢の鉢にスミレやタンポポを混ぜ合わせて「三世(みよ)のほとけ」にたてまつる。
「わが宿は越(こし)の白山(しろやま)冬ごもり行き来の人の跡かたもなし」(歌集『布留散東(ふるさと)』)という雪深い越後の冬が終わって野に花が咲くころの喜びはひとしおだ。
良寛の故郷は越後の海辺の出雲崎(いずもざき)である。北前船と佐渡航路の要港で、北国街道も通る。生家は橘屋(たちばなや)という廻船問屋で、代々、山本新左衛門を名乗る名家だった。良寛は長男で名を栄蔵(えいぞう)という。跡取り息子なのだが、家業になじめず、22歳のときに曹洞宗の玉島円通寺の国仙(こくせん)が巡錫してきたのを機に出家。円通寺での修行に入った。家は弟の泰儀(俳号は由之)が継ぐ。
円通寺は現在の岡山県倉敷市にある。そこで良寛は10年余を過ごし、33歳で師の国仙から印可を受けたが、その後も故郷には戻らなかった。
38歳のとき、突然、父の訃報をうけた。隠居していた父が京に出て桂川で入水。京で漢学塾の教師をしていた末弟の香(かおる)に「天真仏(てんしんぶつ)の仰せにより以南(いなん)を桂川の流(ながれ)に捨つる」と書き置き、「蘇迷盧(そめいろ)の山をしるしに立て置けば我が亡き跡はいつの昔ぞ」と記してのことだった。
「以南」は父の俳号である。「蘇迷盧」はインド神話の宇宙峰スメール(須弥山)のこと。日月も星々も、その周囲を巡る。以南は「須弥山を墓標に立てておいた」という辞世を遺したのだが、入水の理由は詳らかではない。
この父の入水の翌年、良寛は円通寺を辞して帰郷の途につく。おそらく僧籍も捨ててのことだろう。
その翌年、弟の香が父と同じ桂川で入水。享年27歳だった。
そのころ、出雲崎では隣町の尼瀬(あまぜ)の廻船問屋が力を伸ばし、橘屋は衰勢にあった。家を継いだ弟の由之(ゆうし)は町民から金を借りて返せなくなり、奉行所に訴えられた。そして良寛53歳のとき、由之は家財没収・所払いになり、室町時代からつづいた橘屋が潰えた。
それもこれも長男の栄蔵(良寛)がしっかり跡を継がなかったからだ。故郷の人びとは良寛を「ばか息子」とののしった。子どもたちも良寛をばかにした。そんな状況を詠んだ良寛の詩がある。読み下して引用する。
十字街頭に乞食し罷り(町の辻を托鉢してまわり)
八幡宮西 方に徘徊す(八幡神社の西あたりをあてもなく歩いた)
児童相見て共に相語る(子どもらが私を見て言い交わす)
去年の痴僧 今復た来ると(去年のバカ坊主がまた来たぞ、と)
(『草堂集貫華』)
良寛はどこか見知らぬ土地の曹洞宗の寺の住職になることもできたはずである。しかし、あえて針の筵の故郷に戻った。人の視線が厳しい故郷で自我を捨てる修行を決意したのだろう。
ふりかえれば良寛は、上目づかいで人をにらむ目つきの悪い子どもだった。そんな良寛が父と弟の自死や橘屋の滅亡といったことへの重い自責の念を克服するには、針の筵を突き破って、後年の書にある「天上大風」、すなわち青空を風が吹き渡るようなところに行かねばならない。それは良寛が信仰した法華経の「如来神力品」に「如風於空中・一切無障礙(風の空中に於ける如く一切の障礙なし)」と説かれていることであり、先にあげた詩の「十字街頭」は経典で仏のいる場所を意味する語なので、そこに自分の居場所を求めたのだろう。
良寛が自筆歌集『布留散東(ふるさと)』を編んだのは、帰郷から15年もたった54歳の頃である。
そこには無心に遊ぶ春の日など、ふるさとの四季がうたわれているのだが、厳密にいえば、良寛は故郷に帰ることができなかった。良寛の草庵跡は出雲崎の周辺に点在しており、出雲崎の町内にはひとつもない。
また、草庵の多くは海が見えず、波音も聞こえないところにある。海を歌に詠むこともほとんどなかった。
谷川敏朗ほか編『定本良寛全集』にある約1500首のうち海の歌は20首ほどにすぎない。その数少ない海の歌のなかに、「たらちねの母が形見と朝夕に佐渡の島べをうち見つるかも」「いにしへに変はらぬものは荒磯海と向かひに見ゆる佐渡の島なり」がある。この二首を良寛は由之への手紙に書いた。佐渡は亡き母の生地である。たとえ所払いになっても、母の形見の佐渡島は変わらずに見えている。
由之は廻船問屋や俳句の知人を頼って福井や蝦夷地などを転々としたが、晩年は父の生地でもある与板(信濃川の港町)で俳諧の宗匠として暮らした。良寛が晩年に寄寓した島崎村の木村家の納屋(島崎草庵)とは塩之入(しおのり)峠という長い峠道を隔てたところにある。家を継がなかった兄を恨んでもよい由之だったが、その峠を越えて島崎をしばしば訪れ、歌や手紙を交わした。
良寛73歳の天保元年11月、初雪が来た。由之は良寛の容態がよくないと聞いたが、高齢で雪の峠を越えるのは難しくなったので手紙を送った。由之の『八重菊(やえぎく)日記』にそのときの贈答歌が記されている。
「雪降れば道さへ消ゆる塩入(しおのり)の御坂(みさか)造りし神し恨めし」(由之)
「わが命さきくてあらば春の日は若菜つむつむ行て逢(あい)みむ」(良寛)
良寛は命がながらえるなら春の若菜を摘みに行きたいと願ったが、それはかなわなかった。同年12月、激しい下痢に見舞われた。由之は雪の峠を越えて島崎を訪れ、翌年1月6日、74歳の良寛を看とった。その後、天保5年に由之も没(享年73)。兄弟の墓は木村家の菩提寺である島崎の浄土真宗隆泉寺に並んで立っている。
なお、前述の父の死後、良寛は「淡雪の中に立てたる三千大千世界(みちおおち)またその中に泡雪(あわゆき)ぞ降る」と詠んだ。三千大千世界は全世界のこと。その中に雪が降る。その雪の一片一片にまた三千大千世界がある。「蘇迷盧」の歌を遺した父も、自分も、そのような雪の一片としてとらえたのだろう。
仏教百人一首