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再考:五輪はなんのためにあるのか

※「共同通信」配信の連載『論考2018』の2月分初出の再掲載です。五輪延期が取り沙汰される今、あらためて「五輪の原点」を共有したく思います。 

<絵画と額縁〜五輪と国威〜>  
 冬季五輪である。この論考が掲載される頃には、世界の若者が雪上を駆け抜け、吹雪の中を飛翔し、氷上を舞っているだろう。彼らは美しく、そこは彼らを描く絵画を集めた展覧会のようだ。だが同時に、そこには美しき絵画を台無しにするものもある。醜悪なる“国威という額縁”である。
 今回の冬季五輪も、朝鮮半島南北合同チームの結成、ミサイル問題での米国出場辞退騒ぎ、慰安婦合意問題カードなど、100%の政治案件に利用された。もちろんこれらは近代オリンピアードの理念とは無縁だ。
 政治家とは、路傍の石すらも政治目標のために利用する生物であるから、彼らを改心させるのは大変だが、この悪しき額縁から離脱できないのは政治家だけではない。リオ五輪直後、NHKの刈谷富士男解説委員は「五輪開催5つのメリット」の最初に「国威発揚」挙げるという驚くべき解説をした。東京五輪開催返上せよ、とそしられても文句は言えない誤認識である。
 現代の五輪は、ヒットラーが国威発揚に利用した1936年のベルリン五輪への猛省の上にあり、五輪憲章では「個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と明言されている。
 憲章の「オリンピズムの根本原則」には「スポーツをすることは人権の一つである」とある。これは五輪の「都市」開催の意義を裏書きしたものだ。根底にあるのは、中世を起源とする「都市の空気は(人間を)自由にする」というヨーロッパの歴史的生理である。古代ギリシャを振返り、人間の再生を願う近代五輪とは、国家(王権)から自由な「都市」における人間の営為だというのが前提だ。
 こうした国威発揚病(景気効用病も同じ)から逃れて、五輪とスポーツを守るために、我々がなすべきことは何であろうか?
 それは、スポーツ「そのもの」を語る言葉を発見し続けることである。我々は、近代150年スポーツを常に「何かのために」なすものとする心の習慣を引きずって来た。スポーツは富国強兵を支える「若者の鍛錬のため」のものであって、高校野球は、補欠でも黙々と球拾いをできるような「人格形成を行うため」に行われてきた。
 つまり日本のスポーツの発展の端緒は常に学校教育だったということだ。学校教育の目的は「お国のための立派な人間になること」で、そこでは「その競技そのもの」を守り、愛し、極めるための言葉は生み出されない。スポーツは手段だからだ。そして年に数日しか休まず部活をやる若者は、陸上や野球や水泳「そのもの」を語る言葉を持たないまま大人になり、その心は「日本人の五輪物語」に回収される。スポーツ新聞の見出しを見ればわかる。「父に誓った涙のK点ジャンプ!」、「母子家庭の負けん気が生んだホームラン!」。ここには競技「そのもの」の話は皆無である。
 スポーツの素晴らしさとは、「眼前で、己の実感を通じて、人間の肉体が奇跡を起こす瞬間を他者と共有する」喜びである。それは、スポーツを「通じて」何かが鍛錬されること、スポーツを「通じて」国家の威信を高めることとは、全く無縁のものだ。我々は、「にわかには納得できないが、自分は確かに信じられないものを見た」という喜びとともにスポーツを堪能し、その驚きを表現するための豊穣なる言葉を生み出し、スポーツを育む。スポーツという絵画を守るために醜悪な額縁を外し、スポーツを守るための「言葉」を用意しなければならない根底の理由がここにある。
 我々は、氷上を舞う者が金メダル(国威)を取る「事実」を求めてフィギュア・スケートを観るのではない。「スケーティングそのものの美しさ」と、それがもたらす「予測不能な肉体の出来事」に心を奪われたいから、テレビに釘付けになるのだ。
 何度でも繰り返し言う。私はスポーツを深く愛する。しかし国威五輪という額縁がそれを妨げる。スポーツを守るために、なおも言葉を模索せんと誓う冬である。

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