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「大谷グローブ」というスイッチ〜行き交うボールの可能性について〜

<嬉しさ半分、着地点が見つからぬ半分の「大谷グローブ」>
 大谷選手が日本の全小学校にグローブを送ったというニュースを聞いた時、ドジャースと大型契約を結び、気の遠くなるほどの富をえたアスリートが行う社会貢献のスケールに驚いた。同時に、もうひとつ心に浮かんだのが「学校はこのプレゼントをどう扱えば良いか困惑しているだろうな」という心配だった。
 しばらくして、予想通りこの点を指摘するジャーナリストからの報告があった。自治体の教育委員会から委託をうけた公立小学校の学校運営委員である私には、この記事に書かれている「学校が困っている事情」が非常によくわかる。要するに、こうした贈り物を子どもたちの幸福に結びつけるノウハウもアイデアも、公立小学校にはないのである。だから「ガラスケースでの死蔵」になりかねない。数十年前の「ふるさと創生資金」を思い出す。
 教育機関であると同時に行政機関としての意識も強い小学校の施設管理者、校長先生は、偉大なるメジャーリーガーからの贈り物を受けた瞬間「これをどこからもクレームを受けず公平に、かつ教員たちの負担が増えないように、子どもたちへの何らかの指導に結びつけねばならない。ご厚意には感謝するが、また落とし所の難しい仕事が増えてしまった」と思ったはずだ。
 大谷グローブをもしこの話の地平で語れば、それは必ず「色々な配慮をして連立方程式の解を出さねばならない学校運営の現状」となって、夢を乗せてはるばるやって来た大谷選手の志が霞んでしまうし、それでは大谷選手の厚意へのお返しにならない。その意味で、私は今回の厚意を素朴な美談にするのではなく、「地域と子どもと教育」の未来のためのアイデアを浮上させる「スイッチ」と考えたいのである。

<学校校庭で昼休みに15分やる「グローブを使ってみよう!」行事>
 ガラスケースに鎮座し続けるグローブもあるが、子どもたちが使用した例もあるし、全国で今も苦しい模索が続けられている。ここでは東京都世田谷区のS町小学校でのグローブ活用例を紹介してみたい。そこで行われたことは、決して華やかなものではなく、極めて日常に溶け込んだ、そして学校と地域と子どもの三角形が自然に連携したものだ。
 この小学校では「大谷グローブ・プログラム」として、2月半ばから7日間、昼休みの15分間に大谷グローブと「スポンジボール」を使って、「ゴロやフライの捕球」体験行事にした。実に慎ましい取り組みだ。
 殺到する希望者の中から約50人が参加でき、そのうち野球未経験の女子児童がなんと半数以上も含まれていたそうだ。生まれて初めてグローブを使う児童も多く、スポンジボールで何球かフライやゴロがキャッチできただけで、飛び上がって喜んだそうだ。つまり野球未経験の子どもと、経験している子どもを分けて無理をせずやってみたのだ。
 小学校の全クラスに、「背番号3が5人もいた」あの昭和の風景とは異なり、今日男子児童ですらクラスで野球のルールを知るものは数名に過ぎず、競技者はもっと少ない。「軟球」を使用したキャッチボールなど、指導する教員もおらず、危険もともなって、とてもハードルが高いのが現実だ。そんな時、この学校での取り組みに、青年期に高レベルの野球競技経験を持つ地域のシルバー世代の「おじいちゃん」が、このお手伝いの役をかって出て下さったのである。

<地域との信頼関係という基盤>
 これだけ聞くと、さほど驚きもないかもしれないが、「児童の祖父がボランティアで大谷グローブを使って、学校内で教員が見守る中で昼休みにフライやゴロのキャッチをしてみた」というファクト得るためには、実は色々な条件をそろえなければならないのだ。昔を基準にすることはできない。
 かつて神宮の森を沸かせた祖父が、自然にこのボランティアをすることになるためには、どうしても必要なことがある。それは「それまでの間に、保護者や教員たちとの間に信頼関係が存在していたこと」である。この元名選手は、毎朝子どもたちの通学路の横断歩道に黄色い旗を立って、彼らの安全確保に尽力していた。子供も保護者も先生も、毎朝、旗を持った祖父ボランティアに声がけをしていたのだ。
 「学校内で教員の見守る中」というは、この仕事の着地点が難しい(と教員たちは感じる)行事に、大谷グローブ行事担当教員と学校長の協力関係が首尾よく得られたことを示している。「そんなの当たり前でしょう?」と思われる人は、現在の学校が置かれている状況を理解されていない。労働条件が厳しい中、働き方改革も進めよと言われる学校長は、外から飛んでくる「足し算」に神経質となる。教員を少しでも疲弊させたくないからだ。
 この小学校の校長先生は、「教員に負担がかからない昼休みに」、「15分程度」の慎ましいトライをすることを、事前に「全校生徒」にむかって告知して下さったそうだ。つまり、強制でも押し付けでもなく、希望者がいたら、昼休みに大谷グローブで遊ぼうと、全員に呼びかけて下さったのである。校長先生自らが公平に配慮して呼びかけたことで、教員たちの萎縮もなくなるし、これに積極的な教員がいてくれれば仕事は進めやすくなる。
 スポンジボールを使用することで、教員の子どもたちへの安全配慮のコストも下がり、フライやゴロを大谷グローブに収める姿を見守るなら、特別の経験のない教員でも寄り添える。
 しかも、このシルバー指導者が一番大切にしていたことは「野球への関心を高め、野球の面白さを教える」ことではなく、「グローブにボールが吸い込まれて、手に収まった時の感動を経験してもらうこと」だとしていたことだ。目的は「野球振興」ではないのだ。それでは「うちはバスケ一家なので」という保護者を包摂できない。いわば「スポーツ文化」の本当に最初の一歩を、このグローブ行事に託したのだと私は感じた。

<今一度「学校を開く」ことが必要>
 行政も政治家も、「地域と連携した街づくりと教育」と定番の掛け声を上げるが、そうした連携と教育が成立するためには、何よりも日常における地域の交流や協力を通じた信頼関係の構築が不可欠である。同時に、そのためには「すべてを自力でやろうとする学校」が、持ちうるリソースとしてもう一度地域との関係を見直す必要がある。教員以外の人間を学校に入れたがらないという学校関係者の心の習慣を緩めて、無理なく地域の人たちが学校に出入りをできる「住民が行き交う開かれた学校」へと変化することが求められている。「学校のリソースではここまでなので助けてください」と言えば良いのだ。育児も教育も学校運営も、もはや協働なしにはできない時代だ。
 それがしなやかにできる時、「大事な大谷選手のグローブをいったいどうすればいいのか?」という萎縮した悩みに怯えることなく、地域連携行事として、自分たちの取り組みを発信できるだろう。大谷グローブは、野球振興と復権のための狼煙ではない。彼の贈った6万ものグローブは、「マイナー化した野球」と「少子化と個別化が進む子ども」と「疲弊する教員」と「公平という縛り」などで作られた複雑な方程式を、「暮らしの仕組み」へと読み替えるためのスイッチなのだと、私は思う。
 素朴でシンプルなやり方だが、それがうまくいかないのが私たちの現代である。グローブを受け取ったすべての関係者が、相互にそうした取り組みを知らせ合って、楽しい活動となれば、それが大谷選手への最大の返礼となるはずだ。
 
 


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