両方できるじゃないですか?:「法を整備しておくこと」と「個別の政治アクターへの警戒をしておくこと」〜何が憲法論議を滞らせているのか〜
「法整備をしておかないと武力を制限できない」と言うと、「戦争をできるようにするのですか?」と反応される。
「戦争犯罪は、暴力組織向けの特別の法と裁判所がないと裁けない」と言うと、「戦前の軍法会議を作れと言うのですか?」と反応する。
そして言う。
「今、安倍改憲の土俵に下手に乗っかると相手の思惑通りになる!」と。
「だから憲法論議など踏み込むだけでも危険だ!」と。
いずれも「誰がメンバーでもそうなる事を前提にした原理」の話をしているのに、一瞬のうちに「戦争をしようとする安倍」、「戦前回帰を目指す日本会議」と、具体的な「あの人、あの人たち」への警戒へと、話の土俵がチェンジする。
0.1秒くらいでだ。
そうなる理由は、「戦争をしようと考えているかもしれない人」、「戦前に戻そうとする人」を、ものすごく恐れているからである。その気持ちはわかる。しかし、その「気持ち」だけでは、危険な人たちを統制できない。
この「恐怖の膝蓋腱反射」から、彼らが自由になるために(「自由になる」とは「考えないようになる」ということではない!)、私はいったいどのような言葉で説得し、どのようなプログラムを工夫すれば良いのだろうか?
安倍さんは「いつでも戦争できるようにしておきたい」と考えている「かも」しれない。
日本会議の人たちは「日本を戦前のような国に戻したい」と考えている「かも」しれない。
それに対する警戒心は、私も全く同じである。
国連憲章51条によって原則戦争は世界中で禁止されていて、かつ止むを得ない場合についても非常に厳しくルールで縛られている・・・ことを十分知っていても、なお警戒している。
「戦前のような国に」してしまうなんて、何百万もの命を落とした人たちに顔向けができないから絶対に拒否する・・・と毎日思って警戒している。
しかし、全く同時に、自分は「法を整備して自衛隊を縛らないと、安倍さんじゃなくてもトンデモナイ政治家が出てくるに決まっている(「北方領土は戦争で取り返すしかなくね?」と言った穂高某とか)」と思うし、
「国際人道法は戦争犯罪を裁く制度を主権国家に義務付けているし、国家の命令で戦争犯罪に巻き込まれた者の身のほどこしかた方を決めるには軍刑法じゃなきゃダメという世界の常識」を知っている。
「ルールと制度を作っておかないと、縛れないし位置付けもできないと考えて準備すること」と「安倍さんや日本会議に常に警戒活動をしておくこと」は完全に両立する。
そんな自分は、こう峻別する(分けるがどっちも同時に考える)ことができる「特別な能力と知力と精神力」を持っている人間なのだろうか?
違う。「話の土俵を分けないといけない」と思うだけだ。分けて、話して、共有して、そして準備をしないと「システム」として軍事力を警戒できないからだ。
繰り返す。
「ルールを作って統制すること」と「個別のロクデナシ連中に赤札を貼って警戒すること」を両方やろう。
両方できる。
同時にできる。
やらないと、「憲法が実効的に政府を縛るはたらき(規範力)」を取り戻せないし(解釈改憲しまくった9条にはもう規範力がない)、ジリジリと軍拡を容認する(危険なオスプレーを押し付けられたり、ポンコツF35を100機も買わされてる!)ことになる。
やらないと、現時点でもジブチで戦争犯罪に巻き込まれたら、自衛隊員は「自己責任」を取らねばならなくなる(すでに南スーダン行った隊員が20人以上自殺している)。
両方やろう。
話を分けよう。
過剰に怯えるのは止めよう。
法原則とその機能の話と、個別の依頼者の利益擁護とを、日常的にはきちんと分けて、法廷での「裁判官を説得するための作戦」をいつも考えているじゃないですか?弁護士のみなさんは?
どうして安全保障と憲法の話になると、「普段普通にできること」を止めてしまうのですか?
「裁判官が法解釈を過度なまでに裁量的にできないような法を整備すること」と、「法律の不備につけこんで悪事を働くかもしれないヤクザを警戒する」ことは、同時にできますよね?
そして、知恵を貸してください。
憲法学者、弁護士、そして、9条の理念を死なせたくないみなさん。
立憲主義を守らんとする友人ではないですか?私たちは。
私は、今、そんなに無茶苦茶なこと言っていますか?