ありがとう、欅坂46。
時刻はただいま0時頃。日付は10月13日に変わったばかりである。私は家庭の事情で海外に住んでいるため時間のズレが生じているが、日本時間で計算すると、ケヤカスとしての命が尽きるまで、残り約10時間となる。
ラストライブが行われている間は、私はすやすや夢の中だ。ラストライブが終わり、櫻坂46へと生まれ変わるまでの数時間の間は、私は朝からドタバタと学校にいく準備でもしているのだろうな。
正直、欅坂46がなくなってしまうということに対して、そこまで強い感情は芽生えていなかった。約2年ほど応援をさせていただいていたけど、日本に行けることが一度もなくて握手会に行ったことがないし、ましてやライブに応募できたこともない。私にとって欅坂46は常に二次元的存在で、画面の中の人々だった。だから、櫻坂46に生まれ変わるとなっても、大して変化はないだろうと思っていた。
しかし何故だろうか。今の私は、欅坂46がなくなってしまうという事実が、辛くて辛くてたまらない。何故だ、何故だ。だって、生で見られなくなると言われてもそもそも見たことがないし、欅坂46の楽曲がもう披露されなくなると言われても、楽曲自体はCDなどで聴くことができるし、MVだってある、ライブ映像だってある、完璧に消えるわけではないじゃないか。
それなのに何故こんなにも悲しくて心が苦しいのか。それは、悔しさだ。私は、悔しいのだ。
この気持ちは一度推しメンの脱退の時に経験したことがある。私は平手友梨奈さんが大好きだった。もちろん今も大好きだ。でも、欅坂46の平手友梨奈さんを一度も見られなかったことは本当に後悔でしかない。パフォーマンスを見たかった。一度でいいから。遠目でもいいから。一瞬でもいいから。とにかく、見てみたかった。その想いはどうしようもなく、心に突っかかったまま、時間が経過するごとに心の奥底で薄くなって見えなくなる。
そんな想いが、欅坂46がなくなるという事実を認識した時と共に、また私の心に浮かび上がってきたのだ。
改名発表から昨日までの間は、全く持って実感が湧いていなかった。まじで欅坂さんなくなっちゃうの?ドッキリ?夢?そんな感じだった。しかし、欅って書けない?の放送が最後であったり、ラストライブの初日が行われ、それに対するオタクの皆さんの反応をツイッターを通して見ていると、やっと私にも実感が、じわじわとではなく、ドバー!っと、一気に湧いてきたのである。
実は、推しメンの脱退から、欅坂46への熱量は少なくなっていた。この言い方はあまり好きではないが、私には平信と言われてしまうような考え方は少し存在していたし、推しメンのいないグループなんて、と考えていた時期もあった。推しメンのいなくなったパフォーマンスを見ることを避けていた時期もあった。
でも、誰がその鐘を鳴らすのか?のライブ映像をYouTubeでみた時、推しメンがいなくても、欅坂46は、私の好きな欅坂46なんだということに気付いた。私は盲目だった。本当にメンバーの皆さんには申し訳ない。けれど、欅坂46が完全に消えてしまう前に、欅坂46が大好きだということを再認識できたのは、本当に良かったと思う。
だから、今は欅坂46という存在が愛おしくて愛おしくてたまらない。なんでこんなに素晴らしいグループがなくならなあかんねん!とキレそうになるぐらい。オタクになり始めた頃は、欅坂46って儚い!消えちゃいそうで綺麗!みたいなことを明るく言っていたものだが、実際に消えるとなると、全然楽しくないものだ。
私の脳内には、いまだに色んな想いがぐるぐると駆け巡っているが、やっぱり一番心の整理が大変だったであろうメンバーの皆さんが受け入れたことを、いちオタクがうだうだと過去に浸ったり文句を言ったりすることはしたくない。だから私はまだ辛いなー、寂しいなー、という気持ちは残っているけれど、それは今日、ケヤカスとして最後の一日と一緒に胸の内にしまおうと思う。ケヤカスとしての日々はたくさん関されることもあったし、大砲もたくさんくらったし、大変だった。だけどね、最高に幸せだったよ。欅坂46さんには、たくさん救っていただきました。お世話になりました。
欅坂46が存在している世界線に生きることができて、出会えて、好きになれて、私は本当に良かったです。ありがとう、欅坂46。ずっと大好きだよ、欅坂46。
そして、櫻坂46となっても、変わらず応援を続けられたらいいなと思っています。咲き誇ってね、櫻坂46。
長くなりましたが、私のつまらない、ケヤカスとしての遺書をお読みいただきありがとうございました。次はサクカス(?)としてよろしくお願いします。(個人的には桜でんぶがいいです。)