数学はきまぐれ
数学者である岡潔の著に『春宵十話』がある。そこで「クリフォードの定理」が出てくる。岡潔はその定理を「奇数個の直線は円を決定し、偶数個の直線は点を決定し、直線の数をいくら増やしてもそれは変わらない」と説明し、「これがいかにも神秘的に思えた」と言う。文字だけでは、その神秘さは伝わってこない。だったら、実際に作図するしかない。
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紙とペンを取り出し、岡潔の言葉通りに図を描いていく。1本の直線を引く。何もはじまらない1本。直線の数が0と1は定理に含まれないようだ。追加で直線1本を足す。並行でない限り、直線どうしは交わる。なるほど、「偶数個の直線は点を決定」する。
3本目の直線を引く。「奇数個の直線は円を決定」する。直線3本は、3つの交点をつくる。それらを結ぶと三角形ができる。三角形と言えば、外接円。これが「円」。
直線4本の場合はどうか。交点が6つ。「偶数個の直線は点を決定」する。この6つの交点は「点」ではない。もし「点」であれば、直線の数が偶数である必要はなくなる。いったい、この「点」はどこの点を指しているのか。手が止まる。そこから先に進めない。また手を動かす。わからない。
目の前にある作図からは、神秘的な景色は見えてこない。何度も同じ図を描きながら、この定理を理解しようとする。それからは仕事そっちのけでちぐはぐな図形を描き続けた。
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おもしろいもので、霧はとつぜん晴れる。
いつものように、図を描いていた。直線1本は直線のまま。直線2本は交点をつくる。直線3本は三角形をつくり、円を決定する。
ここではっとした。
1があるから2がある。2があるから3がある。3があるから4がある。線は交点を、交点は三角形を、三角形は円を。そして、円は点を。
ここからはあっという間。6つの交点が4つの三角形をつくる。奇数個の場合と同じように、三角形の外接円を描きこむ。コンパスを使いながら、ゆっくりと、ていねいに。できた円は4つ。そのすべての円が、1か所で交わった。これが「点」だった。
岡潔の言う「点」と「円」を、自分でもなんとか感じることができた。定理に向き合った分、その本質に近づいたのか。それとも、たまたまなのか。ただ言えることは、岡潔が言葉足らずだということ。その言葉足らずな定理によって、数学に向き合うことができたということ。そして、クリフォードの定理は神秘的だということ。
この定理は、直線の数を増やしてもその性質は変わらない。点があるから円が生まれる。円があるから点が生まれる。すべての定理はつながっている。定理とは、数学の真理みたいなものから枝分かれしたもの。となりの定理が、そのとなりの定理を証明する。そんな感覚が、クリフォードの定理から聞こえた。
思考のくり返しがつくった感覚。荒れ狂った思考を通り抜けた先。深く、澄んだ思考。そこでしか得られない感覚がある。
岡潔も同じ感覚だったのだろうか。さらに高度な、洗練された思考の感覚だったかもしれない。でも感覚は人の数だけある。それ以上かもしれない。どんな感覚だろうと、数学によって得たこの感覚は大事にしたい。そんな感覚が死ぬまえに聞こえた。それでいいじゃないか。
人は定理や数式を発見することはできるが、つくることはできない。彼らは、はじめからそこにいるだけ。ただし、簡単には応えてくれない。それでも、なんとか彼らの言葉を聞こうとする。向き合おうとする。そこは辛抱強く。すると、ふいに話しかけてくれることがある。数学はきまぐれ。人と同じように、何を考えているかわからない。
問題を解き、正解を探すことが数学ではない。人と同じように思いやりを持ち、じっくりと向き合っていくことで、数学は生まれる。そのことに気づけば、これまでの数学の印象が変わるはず。きまぐれな彼らは、意外と寛容にちがいない。
2020/04/27