見出し画像

私の人生に大きな影響を与えてくれた 高田弘幸の話を聞いてください

ターニングポイントを振り返り感謝をする

私は、共に学ぶ仲間と一緒に、ある勉強会を開いています。
その中で、最近取り上げたテーマは 「ターニングポイント」 

これまでの人生で、いろいろな転機・分かれ道があり、その都度、道を選んできたはずです。

そして、その結果が今ある自分。

ターニングポイントは、起きた出来事や人との出会いによってもたらされます。
勉強会では、自分の最初あるいは最大のターニングポイントを思い起こし、その出来事や出会った人物に対してどんな意味があったかを振り返り、それらに対して感謝をするというワークをしました。

きっかけとなるのは、良いことばかりではなく、事故や事件、悲しい出来事という場合もあります。
そんな場合でも、その向こう側にある意味やメッセージを考えることで、出来事や人物に対して赦(ゆる)すという感情が湧き、わだかまりが無くなり、感謝の念さえ持つことができる。
ましてや、それが素晴らしい出来事や人物であったなら、感謝しかないね…そんなことを話し合いました。

人生最初のターニングポイント

私の人生最初のターニングポイントは、高校1年生の高田弘幸との出会いです。
彼とは中学時代から一緒にサッカーをしていたので、正確に言うと『出会い』ではなく、彼とともにした『行動』です。

私たちが入学した1975年当時、長崎県立諫早高校にはサッカー部はありませんでした。
グランドは甲子園出場経験のある野球部と長い歴史のあるラグビー部が使用しているためサッカーが出来るスペースは皆無でした。
中学校でのサッカー経験者は「仕方がない、何か他の部活を探そうか…」という雰囲気でした。私もそんな一人でした。

しかし、高田は違いました

「サッカー部がなければ作ったらいい!自分たちで始めよう!」
そう考えていました。

彼の熱い思いに引っ張られて、私たちも勧誘活動を開始。
中学校のサッカー経験者をはじめ、野球部や水泳部の運動部経験者、運動部経験はなくてもノリの良い者たちが集まりました。
愛好会として楽しいサッカーをされていた先輩にも声をかけて2人の2年生が加わり、1年生主体で公式戦出場を目標にサッカー同好会が発足しました。

練習場探しからのスタート

学校非公認なのでグランドは使えず、活動は練習場探しから始めました。
諫早の中心を流れる本明川の河川敷や資材置き場、採石場、公園のわずかなスペースなどなどを転々としながらの練習です。

大人の指導者がいない中、練習メニューの組み立ては、高田が『イレブン』『サッカーマガジン』などのサッカー雑誌を見ながら考えてくれました。

厳しい環境の中でも楽しくボールを蹴る毎日でした。

学校の公認組織として認めてもらう活動も始めました。
サッカー素人の生物の先生を口説いて顧問になってもらったり、決意を示すために坊主頭になったり、校門横の花壇の手入れをしたりとあの手この手です。
私たちの活動を横目で見ていた友人たちも、高体連出場のための署名運動で協力してくれました。
それらの学校への働きかけが実り、同好会ながら高校総体県予選に出場が認められ、2年生になった1976年、諫早高校のユニフォームで初めて公式戦に出場しました。
その年は一回戦は勝利したものの二回戦で敗退。

公式戦に出場が認められたとはいえ、学校のグランドは野球部とラグビー部が使用するため、相変わらず練習場所を探しながらの活動です。

そんな私たちに長崎日大高校の下田監督(現在のジャパン代表の森保一監督は下田監督の教え子です)や諫早商業高校の前田先生など他校の指導者が声をかけてくれ練習試合をさせていただきました。

もちろんそこには高田の存在がありました。
サッカーの技術もセンスも抜群だった彼は他校の選手のみならず指導者からも注目される存在でした。
高田が他校の指導者の方々と話をつけて、練習試合を組んでいたのです。
サッカーゴールのない場所で練習していた私たちにとって、相手校での練習試合はサッカーゴールのあるグランドでサッカーができる貴重な機会でした。

強豪島原商業との練習試合、そして本番

3年生の春には、強豪島原商業高校(島商)との練習試合も実現しました。
名将小嶺監督(のちの国見高校監督)が自ら運転されるマイクロバスで諫早まで来てくれたのです。

島商との練習試合では、前半、我々がまさかの善戦。
ハーフタイムでの島商ベンチの気合の入れ方はハンパなく、後半以降、目の色が変わり実力通り、ボコボコにやられました。
しかし、強豪といえども同じ高校生…全く歯が立たないわけではないことがわかり、自分たちでやってきたコトに自信を持ったのも確かでした。
ほぼ同じメンバーでの3年目ですからチーム力も付いていたのかもしれません。

s-vs島商(練習試合2)

(島原商業練習試合 小林伸二選手[現J2北九州監督]とのマッチアップ)

今、考えても不思議なのは、携帯電話もメールもない中で、いち高校生が強豪校の監督とどうやって練習試合の交渉をしたのか…
私は最近知ったことですが、実は、高田は高校進学前、諫早中学3年生の時に小嶺監督に島商に来ないかと誘われていたそうです。
サッカー部がなく公式戦に出られない諫早高校か強豪の島商か…
サッカーに強い思いを持った彼の中で、強い葛藤があったことは容易に想像できます。
結局、地元の普通校である諫早高校に進学しました。
そのおかげで、私たちも毎日がムチャクチャ充実した楽しい時間を送ることができました。

そして、3年生の最後の大会、高校総体では 県大会準決勝まで勝ち上がりました。
準決勝の相手、優勝候補の島商に終始押されながらも、しのいでしのいで…しかし結局1-2の惜敗でした。
その島商は 全国でも圧倒的な強さで勝ち上がり全国優勝しました。
小嶺監督自身の全国初制覇の年でした。
負けておいて自慢もないですが、1点差の接戦は唯一 諫早高校だけだったのは胸を張れました。

s-vs島商

(高校総体準決勝 vs.島原商業 5番林田 14番高田)

高田弘幸という存在

高田と一緒にやってきたこれらの経験から、私は多くのことを学びました。

『やりたいことはあきらめないで、やれる道を探す』
『自分の力を そして仲間を信じること』
『一生懸命やれば周りは応援してくれる』
『環境は自分たちで整える』
『やり抜いたあとの大きな達成感』
などなど

もし高田がいなかったら、こんな楽しい高校生活は送れなかっただろうし、その後の私の歩く道も大きく変わっていたかもしれません。
何よりこれらの考え方は私の人生のバックボーンになりました。

彼は私の恩人であり、私は彼を心から尊敬し感謝しています。
高田は私に大きな自信を与えてくれました…しかし

2012年1月6日 高田弘幸は亡くなりました。

50歳以上の兵庫県代表としてアマチュアサッカーの現役生活を続けていた中での悲劇でした。
最後まであきらめずに病魔と闘いましたが、あまりにも悲しい結果となりました。

自宅療養中に一度だけお見舞いに行きました。
彼の顔を見て、励ましの言葉をかけることはできたけれど、なぜか感謝の言葉は出てきませんでした。

高田に対して、はっきりと感謝を伝えることができなかったのは、今でも心残りです。

ありがとうを言い忘れてしまったのです…

人は二度死ぬ といいます。
一度目は…その肉体が命を終えた時。
そして二度目は…その人のことを覚えている人がいなくなった時。

私の恩人であり 心から尊敬し 感謝すべき高田は、私の中で生き続けています。

私はこんなに素晴らしい男がいたことを、そして彼の足跡をたくさんの人に伝えたい。
そうすることでみんなが高田のことを知り、思いを馳せ、そして語ってくれる。
それが続く限り 高田、君は 死なない。

ありがとう! 高田弘幸


http://yumepod4.xsrv.jp/wp-content/uploads/2019/03/22th_YD3_C1_hayashidanaoyuki_20190319.mp3
ゆめのたね放送局『ラジオ de ありがとう』


いいなと思ったら応援しよう!