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【母の思い出】直行便がなかった頃のこと

1934年生まれの母。海外旅行自由化前の1950年代から海外に行っています。そんな母の思い出を記録したいと思っていたけれど、時すでに遅し。90歳を過ぎ記憶も薄れ、覚えていることも曖昧になってしまっている様子。でも、断片的ですが鮮やかに残っている思い出を話してくれる時もあります。
思い出話やアルバムの中の母の日記を書き残しておこうと思います。


母が初めてニューヨークに行ったのは1950年代の終わり頃です。
今は直行便で行くのが普通ですが、当時は給油のため経由に次ぐ経由だったそう。東京を出発し、ウェーク島、ハワイ、サンフランシスコと止まったと話してくれました。

ウェーク島なんて聞いたことがなくて、どこにあるのか調べてみたら、この地図の赤い印のところ、ちょうど日本とハワイの間にある小さな島でした。

真ん中の赤い点です。

海外旅行の話は何度も聞いたことがあったけど、飛行機の経由の話を聞いたのは初めてでした。それに、最近の事は何でも忘れちゃう母が詳細に話してくれたのも驚きました。

当時の時刻表によると、就航時は週2便で運航。21時30分に羽田を出発し、太平洋の環礁・ウェーク島(ウェーキ島)とハワイ・ホノルルを経由して翌日11時30分にサンフランシスコに到着するスケジュールで、31時間かかった。片道運賃はホノルルまで18万5400円(515ドル)、サンフランシスコまで23万4000円(650ドル)。当時の大卒平均初任給は8700円だった。

J-CASTニュース編集部 工藤博司

ちょっと調べてみるとこんな記事を見つけました。自分の母親だし、もちろん祖父母がどんな人だったか知っていますが、この金額を見てさらにびっくり。一体なぜ20代の母がこの当時に海外旅行することができたんだろう?

当時の航空機DC-6Bは4発のプロペラ機で、巡航速度が時速520km、航続距離が4100kmと短かく、直行便は飛ばせなかった。そのため東京から、燃料補給のためウェーキを経由する必要があった。

興味深いのは経由地のウェーキ島、ホノルルでのおもてなしだ。当時のパンフレット「ウェーク島ご案内」には、旅客に面倒な途中降機を少しでも快適に過ごしてもらおうと、細かなサービスが行われていたことが分かる。パンフレットを見てみよう。

「ウェーキ島(旧大鳥島)に着陸いたしますと直ちに皆様をバスで別図に示す食堂にご案内申し上げ、御朝食をさし上げることになっております。(中略)日中ならば素晴らしい写真もお撮りになることができ、よいご旅行の記念になるかと存じます。絵葉書、お手紙などを投函御希望の方は、日本航空乗務員までお申し出下さい。御食事後、食堂から再びターミナル・ビルへスチュアデスが御案内申し上げますから、出発までゆっくりご休息下さい。皆様、この約1時間半の滞在期間中、ウェーキ島の熱帯情緒を充分にお楽しみください」(ウェーク島御案内より、島名はママ表記しています)

なおホノルルでは、空港内のレストランで夕食が用意された。当時は旅の行程全体がサービスになっていた。

プレジデントオンライン 航空ジャーナリスト 北島幸司

こちらはJALに関する記事です。母がJALで行ったのかどうかはわかりませんが、ウェーク島に寄ったのは間違いないので、きっと母もターミナルで食事をしたんじゃないのかなと想像すると何とも楽しい気分になってきました。

母によると、香港へ行くときも直行便ではなかったそうです。
香港へ行くときは、東京→沖縄→台湾と経由していたそう。母は経由で初めて沖縄に行ったそうですが、空港が本当に何もなくてジャングルみたいだったとか。

そういえば、私が1971年に香港へ行った時も飛行機は一旦、台湾に寄りました。台湾の空港で買ってもらったチャイナドレスを着た人形をCAさんがほめてくれたのが嬉しかったのをよく覚えています。

母のちょっとした話のおかげで昔の海外旅行を知るきっかけになりました。

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