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コーヒー牛乳 9
すこしずつ青空の日が増えてきた。
じっとりと汗が滲み、甘く冷えたジュースを飲みたくなる。真夏はもうそこまでやって来ている。
それならばと、みどり喫茶店はカキ氷をメニューに加えてみた。
ネット販売でカキ氷器を注文しメニューに加えてみたのだが、なにせ氷から手動で削るものだから、出来上がるのにあまりに時間がかかってしまい、忙しいランチタイムに提供する事は諦めた。午後のティータイムにポツリポツリとオーダーが入る程度である。見た目重視で、レトロなデザインが良い重厚なものを選んでしまった。想像以上に場所を取るカキ氷器をしみじみと見つめる。
透明の砂糖水のシロップをかけ、たっぷりのあんを乗せたカキ氷を時沢さんはくしゃくしゃの笑顔で喜んでくれた。
「懐かしいねー。縁日なんかでもよく出てたよー。」
透明の砂糖水のカキ氷の名は、みぞれ。
そう言われてみると、懐かしい響きだ。そして、とてもとても美しい。時沢さんは沢山あるカキ氷の種類の中で、このシンプルなカキ氷が一番好きなのだという。
ここのところは、こんな風に時沢さんといつもの午後の時間を過ごせることも少なくなってきていた。今までのように定期的に店にやってくる事が減り、幾日も来ない日もあれば、三日続けてばらばらの時間にやってくる事もあった。
一度、時沢さんがみどり喫茶店に入れないことがあった。
丁度ランチタイムの混みあった時間に、時沢さんが店の窓の外から中を見つめていたのだが、忙しくて手が離せずにいたら、そのままどこかに行ってしまった。
いや、違う。
ガラス越しに私は時沢さんと一瞬目が合い、その瞳があまりに空虚なようで、まるで宙を眺めているようで、ふいに恐ろしくなり私は咄嗟に顔を伏せたのだ。そして、しばらく時沢さんの方を見ることができずにいたら、そのままいなくなってしまったのだ。
今まで、時沢さんのあんな顔を見る事はなかった。これは病気のせいなのか?何故、あの時私は目を伏せ、何もできなかったのか。
その日はそんな思いが一日中頭をよぎり、まるで自分が罪人にでもなったかのような気持ちになったり、私にできる事は何にもないのかもしれない、と諦めにも似た思いがよぎったりで、心が落ち着くことはなかった。
そんな複雑な思いはもうこりごりだと思い、数日後、店の前にやって来た時沢さんを見つけると、すぐに戸を開けに行って招き入れた。
そうする事に、心に無理やりにでも決めたのだ。
カキ氷を用意したものの、店の売上は相変わらずで、家賃、経費、光熱費、ひとしきり支払うと手元にはいくらも残らないどころか、足りない月さえあった。会社勤めの頃には良く買っていた服や鞄にお金をつぎ込むことは減り、長く伸びた髪を後ろにまとめ、さっぱりと薄い化粧で済ませる。この先考えた方がいい事は山ほどあるように思えるのだが、具体的な事はさっぱり出てこない。
野菜を刻んだり、こんな風に時沢さんと話したりする日常に、いつまでも浮かんでいたい。けれど当たり前だが、時は確かに流れている。
時は流れていて、全ては形をとどめないのだろう。
時沢さんは『そんな事、とうの昔に知ってるよ!』とも、『そんなの知らないね、関係ないよ。』とも言いだしそうな顔で今日も笑っている。
それは長距離を走り続けるランナーの姿にも見えてくる。理由なんかなかったとしても走り続けてきた人の顔だ。
私の中にも漠然と走り出したいという気持ちが湧き上がってくるのを感じている。
でも、どこに。
時はさらさらと流れていく。
太陽の光が本格的に熱を持ち始めたある日の午後、店の前で白い日傘をきちんとと折りたたみ、すらっとした女性が静かに入って来た。五十代前半くらいだろうか、顎のあたりで切り揃えられたボブカットがとても似合っている。水色の細いストライプのシャツに夏らしい籠バッグを肩にさげている。
女性は私を見ると、軽く会釈をした。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ。」
声を掛けると女性は時沢さんと同じ、窓際の席に座った。自然な振る舞いが、とてもきれいに眩しく見えた。
「あ、カフェオレがあるんですね。美味しそう。アイスで頂いていいですか?」
渡したメニューに一通り目を通すと、女性は少し早口の、でもとてもはっきりとした、人と話す事に慣れてそうな口調で言った。にっこり微笑んでメニューを返す所作も洗練されている。思わず、自分の付けているエプロンを眺める。開店以来、同じもの二枚を交互に洗って使っているものだから、随分と色褪せてしまった。
「お待たせしました。」
冷たいカフェオレを運ぶと、女性は周囲に誰も居ないこと再確認するような様子で、
「あの、すみません、このお店に高齢の小柄な女性がお一人で来ませんか?」
と、私の目を見ながらはっきりとした小さな声で言った。
「あ、はい。時沢さん・・・。お客様です。」
突然の質問に驚いたが、女性の瞳に吸い込まれるように、咄嗟に答えてしまった。
「良かった。やっぱり、このお店に通っていたのね。私、ふたつ向こうの駅で花屋をやっている森村と申します。時沢ミツさんの甥子さんの三郎さんとは、遠い親戚にあたるんです。」
グラスにささったストローをくるくると回しながら、少し遠慮がちに森村さんは言った。話を聞くと、お母様の代から続く花屋で森村さんのまた従兄弟にあたる時沢三郎さんは、学生時代に配達のアルバイトをしていた事もあるそうだ。すこし前までは時沢さんも三郎さんと共に、花を買いにくる事もあったそうだ。
「そうですか、あの、私、前に時沢三郎さんをとても怒らせてしまって・・。」
あの日の事が、頭をよぎる。
「そうその事、聞いてます。ごめんなさいね、あの性格だから。今日も三郎さんには自分で行った方がいいって言ったんだけど、引っ込みがつかないらしくて、頼まれてきたんです。でも私も新しいカフェに来てみたかったから良かったんだけど。」
そう言うと森村さんは、肩をすくめてにっこり笑った。こちらを気遣う様子が伝わってきて、とても話がしやすい。
「頼まれて?」
「そうなんです。あの、もしかしてお気づきかもしれないですが、ミツさんは認知症を患っておられて。それで、ご迷惑をかけていることがあるかもしれないと、お詫びとその事を伝えてほしいって言われて。」
静かな落ち着いた口調で、森村さんは話す。
「やっぱり・・・。」
何かの間違えであってほしいというかすかな思いは、遠くに飛んでいく。
「そう、最近はケアマネージャーさんにもお願いして、デイサービスにも通っているみたい。銭湯にうまく通えなくなってしまってたようで、デイサービスでお風呂に入っているそうで。けれどこの間、外出した後、迷って帰れなくなって。三郎さん、毎晩電話かけてたみたいなんだけどその日は繋がらず、部屋にもいなくて、慌てて探していると警察から電話がかかってきて、ようやく見つかってね。」
私を驚かせない為か、ゆっくりと話してくれる。
「そんな、それで一体何処で見つかったんですか?」
「隣の駅の裏道で、ベンチに座っているところを声を掛けてくれた方がいたそうでね。そうよね、お年寄りが夜遅くに長い時間一人でベンチにいるんだもんね、変よね。声を掛けてもらって良かった、これが真冬だと大変なことになってたかもしれない。」
認知症、ケアマネージャー、警察、ベンチ、時沢さんの姿がぐるぐる回り、鼓動は早くなる。森村さんの話に頷くだけで精いっぱいだ。
「電車に乗って、どこかへ行きたかったのかな。よく認知症は近くにおきた出来事はすぐに忘れて、昔の記憶は鮮明に覚えてる事が多いっていうけれど。とくに幼い頃の記憶を。これでもね私、花屋を継ぐ前にヘルパーの資格を取ってパートに行ってたこともあるんです。それで、最近はミツさんはこちらに来られたかしら?」
黒めがちな瞳を丸くさせながら、森村さんは話す。
「最近は・・・。以前のように頻繁に来ることは減ってしまって・・。最後に来たのは、多分二週間程前だったと思います。」
「そうですか、それで、三郎さんはミツさんが施設に入られる事を検討してるみたいで。それまでの間、無事に過ごしてほしいって願っているようで。あの、それで、ミツさんはここに来るとき、さみしい、と話したりする事はありますか?。」
「時沢さん、ここで過ごされている時はとても楽しそうで。一度もその言葉は聞いたことがないです。」
突然の話に、頭がついてこない。
「そう、ミツさんはこのところ、深夜や明け方に三郎さん宛に、さみしい、と電話をかけてくる事がなんどかあったそう。三郎さんも一人で頑張りすぎちゃうのね。頑張っている分、ミツさんの事となると頑なでね。周りの人達で何とか説得してやっと心が動いたみたいで。それで、これは私も花屋をやっていて同じ商いをするものとして話すんですけど、みどり喫茶店さんが、痛手を負わないように、いろいろ大丈夫かなと思って。ほら、私もよくやってしまうんだけど、良かれと思ったことがほら、ね。みどり喫茶店さんの立場を守るといった意味でも。」
私の心を気遣うかのように、こちらを見ながら言いづらそうに話す。
「はい・・・。」
森村さんの優しさが、持って行きようのない気持ちをくっきりと浮かび上がらせる。かえって何か悪い事をしてしまったかのような、うっすらとした罪悪感が滲んでくる。
確かに、時沢さんと過ごす中で、ふと時沢さんの中にある寂しさの様なものを感じる時はあった。
もしかしたら同じように時沢さんも、私の中にあるそれを感じ取っていたのかもしれない。お互いにそのことを口にせず、ただ楽しい時間だけを過ごせていたのは他人だったからかもしれない。一瞬締め付けられた胸が、徐々に空っぽになってゆくようで、その場にしゃがみ込みたくなるのを必死で抑える。
「でも、ミツさんが通っていたお店がここで良かった。戸を開けて中に入ると、ミツさんと同じ雰囲気の笑顔で迎えてくださって。きっとこのお店だ、そう思いました。」
水滴で覆われた冷たいカフェオレのグラスをそっとテーブルに置きながら、ゆっくりと確かめるように森村さんが話している。
その声が遠くに鳴り響いている。
ただ普通に店の準備をして、ランチを出し明日の仕込みをする。
その当たり前になっていた日々の中で、時沢さんをめぐる状況はこんなにも変化していた。
そして今、私は浦島太郎のように現実を知らされている。
「そうだ、これ。ミツさんの鏡台の引き出しの中に、大切にしまわれていたそうです。何枚も。無くしちゃいけないって思ったんでしょうね、引き出し以外にも食器棚や、げた箱の上にもあったそうです。三郎さんが教えてくれました。」
森村さんが手渡してくれたのは、見慣れた茶色のみどり喫茶店のショップカードだった。少しよれかけたそれを手に取り、確かめる。
時沢さんの手で運ばれたであろう、カード。裏返すと簡単な地図が印刷されている所の駅から店までの道のりが、赤鉛筆でなぞられている。
「一枚だけ、私に頂いちゃいました。おかげでここまで迷わずに来れました。ミツさん、ここに来るのが楽しみだったんでしょうね。嬉しかった思い、悲しかった思い、認知症の方は感情に関わる事が記憶に残りやすい、とどこかで聞いたことがあります。」
そういうと森村さんは、何かに解き放たれたような笑みを浮かべて、又一口、カフェオレをのどに流した。
「実はここに来ることを、母には反対されていたんです。余計な事に首をつっこむなって。三郎さんが直接話せばいいと。でもあの性格でしょう、頑固なのよ。そのままになってしまいそうだし。それに、私も来てみたかったんです。ミツさんがそんなに足繫く通うお店はどんなお店だろうって。話が出来なそうなら帰ろうって思っていました。でも、やっぱり来てみて良かったです。」
森村さんが真っ直ぐに私を見て話してくれている事に気付きながら、私は初めて聞く話に様々な思いがめぐり、うわの空で、頷いて返事をするのが精一杯だった。
(コーヒ牛乳10へ続く)