「彼を知り己を知れば百戦殆からず」の意味がちょっと分かったかもしれない【おじさん小学生の譫言vol.32】
「彼」と「己」をまず分離させる。「知る」のは情勢ではない。
エピソード1:体のほうが記憶力がよい
毎朝、アファーメーション(宣言)的に5つの項目を確認している。ただ目を通すだけだと流れてしまうので、その都度ゼロから自分で文章として入力している
自分は頭がいいわけではない(頭の良さではないものを使う)
自分の怠惰と強欲さを認め、むしろエスカレートさせて生きる
感情的な消耗を限界まで減らし、自ら不快を摂取しない
タスク管理表の順番にしたがって、脱線せずに消化していく
理想的な呼吸・姿勢・表情に、何度でもリセットすること
まだはじめて一週間経っていないので、正直覚えきれていない。しかし4番の項目を入力しようとしたときに、すぐさま5番の「理想的な呼吸・姿勢・表情」のことを、体が思い出した。
これは…頭で覚えるよりも、体で覚える(厳密には小脳とかの身体感覚を司る脳に紐付けして覚える)ほうが、自分には向いているということの現れではないか?
これがまず一つ
エピソード2:絵の上達方法
友人たちと絵の上達方法について考えていた。絵を描いているときは、とにかく頭が暇なのだ。
考えていたというか、絵の上達方法というものがあるとしたら、それはどのような手順を踏んでいるのか?ということについて、雑に予想を立てていたというほうが正しい。
結論から言うと、結局「自分の理想と現実の差異を観測し、具体的な重点練習のメニューを設計する」という、ありきたりな話になった。
自分が好きなプロのイラストレーターを批評的に観察し、どこが下手で(どの要素を捨てていて)どこがよいか(どの要素に集中してコストを支払っているか)を推測する。
そして当然、自分の絵はそのようにはできていないので、目標の人が重点的に押さえている項目(拠点)について、自分も訓練(進軍)していく。
今回は「キャラクターは目鼻口だけで徹底的に完結している(かわりに身体と顔パーツ群の関係性におけるデッサンは狂っていてもよい)」という発見があったので、目鼻だけの練習を毎日のメニューに追加することになった。
これが二つめ
エピソード3:絵とゲームを分けるものはなにか?
作業通話中は絵を描いていない友人も参加する。彼がこう言った
友人はゲームをする。我々は絵を描く。そのどちらも趣味であるはずなのに、そこにはなんらかの差異がある。その感覚は何となくわかるが、じゃあ厳密にはどういうことだろうか?
このことについては2つの階層がありえる。一つは趣味対象そのものの性質。もう一つは、趣味対象に対する他者の客観的な印象である。
まず創作活動というのは、フォーマットから自作する場合が多い。それは「どのゲームをやるか」を、既製品から選ぶのではなく、むしろゲーム開発者に近い形で設計するところから始まる。(すると創作活動にまつわる教育機関の役割の一つは、その『ゲーム』をパッケージすることなのかもしれない)
そう聞くとなんだか凄そうだが、実際は趣味である以上、大差はない。
ただ、絵もゲームも、趣味「ではないもの」、つまり対価を享受する経済活動にリーチする可能性がある。そこには趣味者本人ではなくて、それを評価し期待する他者の存在が関わってくるといえよう。
経済活動化する趣味の当事者と観客が、どのような構造の中にいるのかについては「資本論」の領域なので(そしてまだ読みきれてもいないので)ちょっと割愛するとして、
ここでは「当事者と他者が構造に関わる」という、これまたある種あたりまえのことを確認するにとどめたい。
これが三つ目
つまり孫子…ってコト!?
この3つのエピソードを、なにか一つのテーマで統一することができないか?を考えていたとき、思い浮かんだのが表題の孫子の言葉である。
じゃあ彼と己の、いったい何を知ればいいのか?ということについては、一般的には「情勢」であるとされているが、それはもしかしたら、ちょっと表面的すぎるのではなかろうか?
そしてここで、わざわざ「彼」と「己」の2つに分けて言っていること。つまりこの孫子の文章が「全部を知れば百戦殆からず」(そりゃそうだ)と言っていないのはなぜか?
ということが、説明可能なほど言語化はできないものの、とにかくまず感覚で分かった。
観察可能なものが生じるための構造には、分離した自己と他者の身体性がある。みたいな…なんというか…ううーん…