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型無しの天井にへばりつくこと【おじさん小学生の譫言vol.47】
うわ言を言うだけでは飽き足らなくなってきたな
楽器やイラストの基礎練習が(かなり)できない。語学でも訓練的な要素がつらい。
ルーチン的挙動はどうしても最効率化する傾向があり、最も効率的なのは、それをやらないことである。
興味が高まるなどして、感情がともなう学習は一発で定着するが、身体性に関わるものには通用しない。
型と失敗したい欲求
そこに欠如するものは一種の「型」と呼べるものだろう。逆に、型そのものに苦手意識があって、その結果、練習・訓練ができないのかもしれない。
ミスタッチや勘違い、記入漏れや誤作動が多いことも関わってくる。もはや「何かを間違わずにはいられない」欲求みたいなものが、備わっているのでは?とさえ思う。
できないことができるように
だから感情や興奮に頼らずに、つまり特定の「つまらないこと」を、せずにはいられないようになりたい。
即興ではない分野においては、後からチェックすること、必要な資料にあたることができるようになりたい。文章なら、書き殴って終わりとは違うものが作れるようになりたい。
「できるようになりたい」は「それ自体をやりたい」のとは違う。したがって「やりたくないことを、できるようになりたい」とほぼ同義になる。
さらには「(今は)やりたくないことを、やらずにはいられないようになりたい」ということになる。それは成果を度外視してなお、できないと思い知っている上でやることに他ならないし、苦痛と徒労感を自ら求める態度を選ぶということになる。
そもそもなぜ、やりたくないことをやりたいのか
やりたいことをやるのは良い。問題は「やりたい分だけ」やるということにある。
やりたい分だけしかやらないと、すぐにつまらなくなる。できることが増えないと、できないことが、できないままだ(そりゃそうよ)。できないままでいることは、「やりたいこと」ではない。
だから、つらかった人生がつらくなくなってきた分、自分のやりたいことに「つらさ」を注ぐ。率先してつらさを取りにいく。
かつての半分でいいので
体が思ったように動かないということは、思っていることとは別に動く余地があるということでもある。もっと不健康だった時に、もっとやりたいことができていた(レベルは低かったが時間の長さとして)のだから、その半分でいいから、やりたいことを、つらい領域でやり続けたい。それが今の自分の「欲望する責務」である。