楽するためなら何でもする!ゼロコストと差異による価値で利鞘を抜き続けることは可能か?(前編)【おじさん小学生の譫言vol.7】
ついにこの歳になるまで、努力らしい努力ができなかった。努力はサステナブルではない。一方、その性質を踏まえた上で一時的に運用することはできる(受験とかですね)
もうかなり前から、知力体力気力全てが衰え始めている。御しやすさは増したが、今のうちに限界まで楽な生活を設計しておかなくては、どこかで破綻するか、どこかに皺寄せが生じるだろう。
実際はそんなことはなく、「一時的な努力」を断続的に発動させていけばいいのだけど、捻くれた根性と能力の低さのせいで、楽をすることに対する執着がすごい。楽をするためなら(ある程度)何でもするぞ!それは自分の人生にどうしてもやりたいことが無いということでもある。
楽とは何か?
自分にとっての楽とは何か?それをいったん「しなければいけないこと」がない状態としてみよう。衣食住があるので完全に無くすことはできないが、「しなければいけないこと」が考えうるギリギリまで無いことが平常であること、これを目指す。
かといって「何もしてはいけない」のは逆に窮屈だ。したがって「しなければいけないこと」ではないことをし続ける。つまり「余計なことをし続けて生きる」ことが、自分の目指すべき楽なのではないか?と仮定する。
社会という神に捧げ物をし続ける義務
それができないことの理由に、自分が属する社会が、常に捧げ物を求める神であるということがある。この地と時に生を受け、メシ食ってゲームして遊んでいる以上は、生活費・税金・その他もろもろをちゃんと上納せいということである(捧げ物は必ずしも金銭である必要はないが、お互いの利便性のために、その形を取ることが多い)
この義務が楽することと相反する。かといって、社会に対して捧げ物の義務を放棄したいわけではない。無論、敬虔な信心からではなく、それが結局大きな利子とともに徴収されるだろうという利己的な直観に基づいた感情である。
ではどうするか? たとえば私の息を捧げるのはどうか?息は生きている限り、無限に出力される。それが生きていくに十分な捧げ物にならないのは何故か?そもそも私が生きているだけで社会に対する十分な捧げ物にならないのは何故か?
差異に宿る価値があるならば
一つに、私の息は①ありふれており②失われても構わないという社会の判断がある。
仮にありふれていても、失われてしまうことで社会が飢え苦しむならば、そこに捧げ物としての「求め」が発生していることになる。一般的就労がそれにあたり、今日の社会に与する手段として最も定石である。ただしもちろん、楽ではない。一時的努力と消耗回復のサイクルを回し続ける選択肢であり、それに耐えうる最低限の個体能力が前提となる。悲しいことに、俺にはそれが無い。
ではこの逆は?「珍しいが、失われても構わない」には、社会が捧げ物として求めるだけの価値が生じるだろうか?
答えはNoであり、控えめに言って、その価値だけでは人間一人を生かし続けるのに十分にはなり得ない。もしそうでなければ、世の中は珍しいが失われても構わないことをする人間ばかりで溢れかえっているはずだろう。
失いたくないと思う社会はなくても、個人はありえる
が、望みを失うにはまだ早い。社会という神は汎神であり、全にして一でありながら、同時にその素粒子としての人間個体が(わたしと同様に)個別の判断を行い続ける。
するとあたかも結論のような「社会から失われても構わない」の内部にはグラデーションが生じていることがわかる。社会の結論的判断のように見えるものは個体レベルまで素粒子分解され、無数のバリエーション、「私には失われても構わない」や「私は失いたくない」や「私は失われると悲しいが、そのために対価を支払うほどではない」や「そもそも知らない」になる。
ということは、社会全体にとってではなく、その中の一部の個体群にとってのみ、ありふれていようが、珍しかろうが、「失いたくない」と判断されるのであれば、私の息や私の存在が、捧げ物として成立するということになる(その仕組みを無意識的に逆手に取ろうとしているのが、いわゆるメンヘラムーブなのかもしれないが、これは楽をすることとはまた別の話なので割愛する)
なんだか遠回しにものすご〜く当たり前のことを言っている気がしてきたが、さてこの仕組みを、楽することに接続してみるとどうなるか?
(妙に長くなってしまったので、前編と後編に分けます)