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備忘:畏るべき神話世界からの賜物である肉体に拮抗する無駄と虚構、原始の力を解禁する意味での三種の「健康」【おじさん小学生の譫言vol.39】

なんかこわいタイトルだな〜。でも大丈夫!正気シラフです(それはそれでこわい)

Go Wild と儀式論

「ジャンプ連載作家はどうしてあんなに知識量と作業量を維持できるのか?」という話題から派生して、友人が「健康になった人間はストーリーテリングを始めるのではないか?」という仮説を唱えていたので、いくつかの観点から検討した。

・この場合のストーリーテリングとは何か?
・現実に対する行為はストーリーテリングに該当するか?
・コメディの観客はストーリーテリングするか?コメディアンはそれを想定するか?観客のテリング(telling)とは何か?
・語られるストーリーの属する領域として、現実と非現実の区別は、此岸と彼岸(平常と変性意識状態)という別種の区別と、どのように重なるか?

あとから聞けば、GO WILDという本に「人間種(ホモ・サピエンス)と他のホモ種を区別するものは、好奇心と共感力である」とあったことが着想らしく、そのことと「儀式論」において解説されていた儀礼における神話の役割についての内容と、勝手に頭の中で連携する。

肉体(神話世界)vs社会(世俗世界)なのではないか?

儀式論の中では、神話世界への没入が世俗世界からの逃避とカタルシスをもたらすという説明に留まり、そこでいう「世俗」とは何か?ということ自体については省略されていた(それは本の要旨からも正しい)。

ざっくり書いてあったことの印象をまとめると、不死と無時間の領域(神話世界)に自らを消失させることが儀式の役割の一つであるという。それがどうして可能なのか?ということと、それがどうして必要なのか?ということが、今回の話題で腑に落ちた。つまり

肉体(神話世界遺物)⇆社会【好奇心(無駄)+共感力(虚構)】

???

なのではないか?という直観である。大丈夫!正気シラフです

神話生物の大群を鎮める「社会」という魔法陣

言わずもがな、我々の肉体は、わたしたちが人間になる前の、そして生命にすらなる以前の時空間から、因果によって脈々と受け継がれものである(ここではシミュレーション仮説などは度外視し、この世界の有り様を、いったん「真に受ける」ものとします)

だからこそ、人間はいつでも儀礼などによって神話空間に突入できるし、神話世界への突入のキーが肉体である(模倣や舞踏、物理的な手順や衣装、特定の空間や時間帯において実施される儀式の効果においては、肉体への作用が重要な経路となる)

その畏怖すべき別世界からの賜り物としての肉体の大群を、ホモ・サピエンスは社会という幾重にもなった虚構の層(昨日は「ウソのミルフィーユ」と言っていた)によって制御・抑圧することに、ある程度成功した種族である。という言い方ができるのではないか?

こう考えると、冒頭の「ストーリーテリング」とは何か?それが現実世界とフィクションにおいて区別される必要がどれくらいあるのか?がぼんやりとわかってくる。

三種の健康は肉体と社会の関係の「型」で言い換えることができないか

さらに、某コミュニティで定義された「健康」、それをさらに三種類に要素分解したものは、それぞれが(神話的)肉体とそれを制御する装置(制御体)との関係性によって統一的に式変換できそうな気がする。

肉体の健康= 肉体の制御体に関する
群れの健康= 他なる肉体の制御体に関する
認知の健康= 制御体の制御体(メタ制御体)に関する

なぜ「不・健康」だと力が出ないのか?そこでは力は出ないのではなくて、制御されないまま破壊的に作用している。そういったことは、また多くの「ストーリー」によって前史から語り継がれていることでもある。

時間切れにつき今日の記事終了

ただ、制御という観点においては、共感力(虚構)だけでなく、好奇心(無駄)がどういった役割を担っているのかについては、まだピンときていないし、こういった構造が明らかになったからといって、それが何に応用できるのかもまだちょっと分からない。

その上で、これらがもう少し根本的なことについての表現のバリエーションであるという気がしてならない。



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