「ホコリをかぶった部屋」が最適解になる人間【おじさん小学生の譫言vol.12】
とにかくやりたいことが多すぎる!だけど意地でも絞りたくない!
するとどうなるか?
一生何も成し遂げることができない
分かっている。人に喜ばれて、認められて、求められる何らかの出力を維持するためには、自分の興味や力を最低限、特定の分野に絞り込まなくてはいけない。
しかし働いている時には絵を、絵を描いている時には楽器を、楽器を触っている時は文章を、文章を作っている時には労働を、とにかくやりたいことのどれかができていないことが辛い。そのこと自体で大きく消耗することもあり、結局、何もできないまま毎日が終わる。
あらゆる成果を期待しない(しかない)
そのうえ、何かを少しでも「しなければ」と思った瞬間、全てのことが何もできなくなる。ということは、興味のある分野の、しかし気の向いたことだけをやって1日を過ごさねばならず、それは他人から見てただの異常にワガママな奴でしかない。というか「他人から見て」とかではない。
先述の通り、いずれの分野においても十分な成果を期待できない。それ以前に、何らかの成果のために「せねば」と思うこと自体ができない。最近になってようやく、それならばそれで仕方ない。もうどうでもいいと、このデッドロックを受け入れることはできた。
つまり消去法で、虚無主義を採用させられることになる。あらゆることを気が向いた分だけやり、それが何かの足しになることを期待しない。
いやしかし…そんな調子で日々を生きていくことができているということ自体は、本当にありがたい奇跡的な状況だと言い加えておかなくては、なんだかフェアではない気もする。
使わない部屋をそのままにしておくという知恵
それで分かったのが「興味があるが手をつけられない分野」についてのアウトプット先は固定し、しばらく更新できなくてもそのままにしておくというのが大事なんだということだった。このアカウントのことです。
いくつかのプラットフォームについて、更新が滞っていたことを理由にアカウントを消したりしていたのがもったいなかった。半年以上ぶりに復活することもあるし、何より新しいアカウントを作らずに済む。
分野ごとに単一のアカウントが残っていれば、そこからさらに何年も後から見れば(そんなのを見るのは本人だけかもしれないが)連続した出力のように見えるのだった。
そのよく分からない痕跡は、何よりも自分を慰めてくれる。何をしても何の意味も価値もないのだと分かっていても、それでも何がしかが残っている(残ってしまっている)ということは、良し悪しではない。
その上で、またしばらく手をつけていない分野に手をつけて、続いていた習慣は理由もなく途絶えて、放埒に徒労を積み重ねていく。それで良いか悪いかではなくて、それしかできないし、そのことについて何かを思うことによる消耗で、手慰みもできなくなるくらいなら、もっと虚心に似た何かによって、ガラクタを量産しつづけていたい。