おじさん小学生の読書メモ25回目
今日はバテてます
昨日色々と根詰めて作業した反動で、今日はほとんど本を読めず「世界文学全集48伊藤整 編 世界近代詩十人集」を最初から眺める程度だった。
ハイネから始まるこの全集は伊藤整の編集によるもので、元々は文学全集だったものが、地元のBOOK OFFに1冊だけで105円で売っていた。
それがなかなかどうして面白い。当時の言葉づかいなのか、異国の詩を日本語らしく七五調に翻訳している様子からは、格調の高さを通り越して隔世の趣きが強い。
イエーツ編だけ、先に全部読んだ記憶がある。というのは、たしか河合隼雄がケルトの世界を訪ねたエッセイにイエーツ(イェーツ)の名前があったからだ。
イエーツに限らず、近代詩十人集の詩はとにかく恋愛ものが多い。そういうことはいつの世も同じなのかもしれない。
どうしても、結ばれる恋より叶わぬ恋のほうが量は多くなってしまうわけで、やはりそういう大衆性が、こうして詩としても残っているのだろうか?
解呪として代わりに語ること
それで思い出したことが二つある。
一つは、時代も国も異なる戯曲に、同じ要素があったということだ。「妹背山婦女庭訓」と「不死身のカシチェイ」である。
どちらも「邪悪で強力な力を持った魔王を打ち倒す鍵は、叶わぬ恋を抱いた娘である」という構造をもっている。なんというか、これはどういうことだろう?
はじめは神話の世界の典型(神話素)みたいなものがそこにあるような気がしたが、そこまで普遍的なテーマではないような気がする。たとえば世界創造の物語とかには、こういうモチーフはあんまり出てこない(たぶん)
それでもう一つ思い出したのが小津安二郎の「東京物語」である。
といっても東京物語は、先ほどの2つの戯曲と構造的に似ている部分があるわけではない。原節子演じる紀子という登場人物は「戦死した次男の妻」であり、他の家族からやや孤立した存在として慎ましく振る舞う様子が描かれ、そして最後にささやかに報われるという話である。別に魔王とかは出てこない。
この映画を観た時に、「あ〜、これは『解呪』の映画だな」と思った。どれだけ多くの「紀子」がこの映画によって慰められたことだろう。そういった意味では「叶わぬ恋を抱いた娘が、しかしそのことで世界を救う」という物語も、人々の心を『解呪』し、動かしたものだったのかもしれない。
戯曲も、詩も、映画も、救われない人たちを救うことはできないが、救われなかった人たちの「物語」を救うこと(それは時にただ物語られるだけである)は可能である。
救いとはなんだろう?厳密には分からないが、ここにはおそらく、受け手が「勝手に救われている」という構造があって、それが重要なものの一つである気がしてならない。
しかしそれは「安い救い」ではないか?その救いは、心を慰めるだけで、窮地をそのままにし、問題を先送りにしているに過ぎない可能性はないか?
ハーム・リダクションの話を思い出す。薬物依存者に対して、はじめにすることは強制隔離や薬理的治療ではなく、「清潔な注射針を配る」ことだという。
そういう一見遠回しで倒錯したアプローチが、あるいはそれはアプローチですらなかったり、アプローチにたまたまなってしまっているようなものが、ただ他人が意識的に介入することでは届かない深いところまで届く何かをもたらすことも、あるような気がする。