楽するためなら何でもする!ゼロコストと差異による価値で利鞘を抜き続けることは可能か?(後編)【おじさん小学生の譫言vol.8】
また頼まれもしない文章をつらつらと書いている。
前編のまとめ
じゃあどうしたら、楽して人々が求めるものを捧げ続けることができる?
自分だけが楽にできることは何か
前編で触れたように、個人の価値判断はそれぞれに違うのと同様に、何がその人にとって苦痛であり負担であるかも、だいぶ違うようだ。
本を読む、人に会う、一つの場所にじっとしている、そうしたことを苦痛と思う人もいれば、喜びと思う人もいる。
では、自分にとっては何の苦ではないことが、他の人々の苦痛であったりして、それを実行だけで周りにとても喜ばれたなら、そこには価値が生じていると言えないか?
それが本人にとってはコストが低く、周りにとっては価値が高いことになるのだとしたら、その個人性質の差異による利鞘を抜くことができないだろうか?
楽するために、真剣にゼロコストにして、それをやる
しかし!「私だけの低コスト」を見出そうとする時、かなり自分に正直に冷徹になる必要があるということが、経験上分かってきたのも事実である。
単に一時的な躁状態で苦痛を感じていないだけではないか?本当は無理しているのではないか?毎日やるほどではないのではないか?
また、コストがかからない行為を、いかに他者にとっての価値に結びつけるか?というデザインの問題もある。最適な方法は?プラットフォームは?頻度は?トンマナは?
そういう煩雑な事柄を、絶えず真剣に考える必要があり、真剣に考えるということは、つまり一時的なコストをかけるということだ。ここに倒錯がある。楽をするためなら何でもやる!
考えたら実践して、フィードバックを得る。どうせ考えたって何もわからないので、結果を見て思考の代わりにする。その結果、「やっぱり…もうちょっと自分の頭で考えてから行動したほうがいいか」と判断するのでも構わない。
つまり、しなくてもいいことで喜んでもらうために、考えなくていいことまで真剣に考えて、しなくてもいいことをやった結果を鑑みて、またしなくてもいいことをやるのだ。
それを狂気と呼ぶのは、果たしてどの段階からだろう?100回やったら?生計が立ったら?10年経ったら?
言うて再現性無さそう(しかし、だからこそ)
と、まるで他の人にも適用可能な方法論であるような口ぶりで書き殴ってきたが、しかし正直に言うと、こんな偏った考え方や行動に再現性は期待しないほうがいいだろう。申し訳ない!俺にはゼロコストと価値、社会がこのように見えるというだけの話です。何かのヒントになれば嬉しい。
だからこの記事自体が、内容に対して入れ子構造にもなっている。頼まれもせず、苦でもなく、書かなくてもいいことを書いたこの記事が、誰かにとっての価値になってほしいし、誰かにとっての価値になるために、可能な範囲ならコストをかけることができている。そしてそれはまったく苦ではない。
毎日投稿は無理。何らかの精査に耐えられる内容も根拠もない。しかしこれが私の息であり、受け取り手の定かではない捧げ物である。
この息が、俺の生存を免責しうる「十分な価値」に届くかどうかはわからないが、続けること、繰り返されることはその必要条件であり、さらに続けること、繰り返されることにとって、ゼロコストであることは重要な要素でありうる。
このやり方について貴賤を問われるなら、喜んで賤を引き受けよう。楽をするということ自体がそもそも褒められたことではない。その上で、どうしたら自分が楽をしたまま、社会の一部に利益をもたらすことができるかを考え続けることが、これもまた、苦ではないのだった。