連ツイをnoteにまとめようとしたらダメだった【おじさん小学生の譫言vol.40】
最近はnoteではなくTwitterの方で思い付いたことを連ツイしていたので、この機会に振り返ろうと思ったものの…
きっかけはギックリ腰だったな
連ツイをnoteに転記すると読めない問題が発生
す、すごい…noteに転記したら全然内容が頭に入ってこない!!!
(なので連ツイツリーだと多少読みやすい)
改めてnote用に考えるというnoteにしよう…
自分が健やかに生きることについての、再現性の無さと、再現可能性について、同時に考えてみる。
「生身の他人が無理で、喋りながら絵を描くと捗り、ビデオゲームだけなら何時間もできるカフェイン効きすぎおじさん」という自分の奇妙さには再現性があるはずもないが、
「自分の奇妙さをハンデにせず活かす」という生き方自体には再現性があると信じており、それが社会に用意された生き方から逸れた人たちの、当然の選択肢になってほしいと思う。
便利なSNSがもたらす無意識的な前提
SNSは奇妙な人間と、その奇妙さを求める人間のマッチングを可能にし、伴侶や生業など、かけがえのないものに出会える可能性を秘めているが、その前提として、良くも悪くも、多くのものが「見えて」「比較できる」という性質をもっている。
これがヒエラルキーを生み出し、最も強い者(たち)が最も多くを獲るという構造を強化している。まあSNSサービスが、市場経済の一面を増幅させているだけなのかもしれない。
なので、フォロワー数に代表される「影響力(インフルエンシー)」という概念が老若男女にうっすら浸透し、どんなスタンスであれ、SNS上の競争原理に参加させられて、場合によっては「影響力の無限増殖」という欲望をかきたてられることになる。
無限増殖は別のプレイモード
しかしながら、自分が手に入れようとしているものが、必ずしも影響力の無限増殖によって得られるわけではない。これはSNSに限った話ではない。
目標が達成されること、あるいは、漠然とした目標が定まることが達成されれば、影響力の拡張(スケーリング)は十分に果たされるからだ。先述の「無能のスケーリング」は、これを目指し、そのセオリーを探る。
蛇足
当然、無限増殖への欲望自体を否定するわけではなく(否定できるわけでもなく)SNSや市場における無限のスケーリングと、求めるものを獲るためだけのスケーリングとは、盤上は同じでも別のプレイモードであるように思われる。
あなたが無限のスケーリング競争による勝利をこそ、こよなく愛するのであるならば、二つのプレイモードが重なることもあるだろう。しかし、その場合に勝利できるのは小数点以下の割合の人間である。
そういう人は、まずは自分が困りごとのない生活を送ることを目指した方がいいと思ってしまうが、非合理的なものに突き動かされるぐらいでなきゃ無限増殖プレイでは勝てないんだろうなとも思う。
連ツイの内容をnoteにまとめようと思ったが、連ツイから着想を得て、また新たに文章を作るほうが良さそうだ。
連ツイではかなり雑に考えているので、読み物の体裁にするには言及している領域を分解しなければいけないように思われる。すると1記事には収まらない。
たとえば「市場原理を背景としたSNSの持つ前提」と「個人の『奇妙さ』の運用最適化」は、並行して語ろうとすると自分が混乱するし、
そもそもこの2つについては「語る」という行為をはみ出て、実践をもって思考に代替するべきであるように感じられる以上、正直、現段階の「実践」では、あんまり意味のある内容を文章にできそうにない。
しかし、意味は常に駄文を伏線として、後からやってくる。テキストすることの衝動を、こうして衆目に晒す形で固定するという無意味な行為が、時に「幸運」として、ときに「機転」として自分を救ってきたと思うし、そう思い込んだまま生きていきたい。