なにかに一生懸命になることは、より大きな枠組みでの真剣さに相反する(後編)【おじさん小学生の譫言vol.27】
では、一生懸命さが抱えている、もう一つの歪みとはなにか?
一生懸命とはなにか?
一生懸命の語源は、室町時代に武士が先祖伝来の土地や、領主から賜った土地を守る「一所懸命」であるという。
読んで字の如く、一つの土地に命を懸けることが求められていた時代から移り変わって、現代でも意味が通用するために、「一生」懸命になったことは単なる誤用ではなさそうだ。
では自分の命(一生)に命を懸ける(懸命)ということはどういうことか?それは逆の場合を考えるとわかりやすい。
非・一生懸命とはなにか?
自分の命に命を懸けていない状態。何事かに全力で取り組んでいる…わけではない状態。これを非・一生懸命とみなすならば、一生懸命とは「何事かに全力で取り組んでいる状態」ということで、まず問題はないと思われる。
では「全力で取り組んでいる状態」とはなにか?実はこれについて外的要因と内的要因で、二つの解釈ができてしまうため、一生懸命のもう一つの歪みもまた、この分岐から発生している。
取り組むこと、取り組むことになること
外的要因、たとえば他者の客観的視点からの「全力で取り組んでいる状態」とは、「他のことをせずに、妥協せずに、取り組む」ということである。そりゃそうだ。と言われるかもしれない。
内的要因、つまり当事者の主体的視点からの「全力で取り組んでいる状態」とは、「結果として他のことをせずに、妥協せずに、取り組む」ということである。
見えているものは結果である。一生懸命さを顕現させるだけの一生懸命さを主体として発揮している時、その主体は一生懸命であることを意識的に求めることができない。
一生懸命は厳密な意味では全力ではない
さらにあらかじめ、何事かに全力で取り組んでいる状態に「なろう」とすること自体が、すでに全力で取り組んでいる状態ではない。
もちろんこれは厳密な意味で、ということであり、一般生活において「全力を出そう」と思って重い腰を上げて物事にあたることの一定の効果を否定するつもりはない。
しかしそのことが「やろうと思ってやるのは『全力』に該当しない
」ことと、矛盾しない。全力じゃなくても機能するというだけである。
以上のことから、一生懸命とは、全力が発揮できない場合においてのみ、やむを得ず採用することのできる代替的な姿勢である。といえる。
重ねて言うと、一生懸命には一定の有用性を認めることができるし、ある種の美徳にはなりうるが、決して最も理想的な最善の状態ではないということになる。
なろうとしないで一生懸命じゃなきゃ生ぬるい
さて、そうすると、決して最も理想的な最善の状態ではない「一生懸命(自分の命に命を懸ける)」であることを、それで十分としたり、あるいは目標として掲げることは、果たして本当に、自分に対して真剣な態度なのだろうか?
つまり、一生懸命であろうとすることは、一生懸命であることと相反するのではないか?
一生懸命になろうとすることを超えて、もっと真面目に真剣になることができるのではないか?
自分の意志で一生懸命であろうとするのではなく、一生懸命と呼ばれるものに、結果としてなってしまう状態を求めてこそ、自分の命に命を懸けていると言えるのではないか?
ここで前編の話題に戻ってもいい。自分の一生懸命さを(広義の)出資者から評価される時、それは評価のために顕現させた一生懸命なのか?あるいは結果としてそうなってしまった一生懸命なのか?そして主体として、持続可能で望ましいのはどちらか?
わざわざ言わなくていいことを言う欲望
そういう理屈を踏まえた上で「でも俺は自分の意志で一生懸命やる」というなら、それは素晴らしいことだ。
しかし、それがわからないまま、ただ一生懸命になろうとする人の中には「一生懸命やろうとするからうまくいかない」という人がいるのも事実である。
そういう人には、このように、本来はわざわざ言うまでもないと思われているような、この世のソースコードとしての論理を手がかりにして、自分の一生懸命をブラッシュアップしてほしい。
というのは順序が嘘で。なんかこういうことが書きたいから書いただけで、しかもそれが誰かのためになったら嬉しいな〜という虫のいいことを考えている俺がいる。
そうした淡い欲望にしたがって、一日の最も活動的な時間を、他のことに脇目も振らずに費やしたこの態度が、客観的に一生懸命だと評価されるのであれば、別にそれは構わないし、同時にその評価のためだけに、再び一生懸命になろうとすることもないだろう。