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自分の愚かさを手がかりに、構造を改変することについてのメモ【おじさん小学生の譫言vol.34】

個人の性質は変わらない。構造で絡めとる。

わかっててもダメなことをしてしまう

セオリーやアドバイス、自分自身の発見を、その都度忘れるか軽視して、明らかにそうあるべきではない行動を取ってしまうことが、続いている。

今に始まったことではないので、もう一生このままでも構わないとは思いつつ、せっかく「言葉は鍵開け道具である」というアイデアが手元にあるので、解錠には至らずとも、その手がかりめいたものは残しておきたい。

時を駆けるおじさん小学生

愚かな行為の背景には因果関係がある。そのプロセスのどこを書き換えれば、より望ましい行為になるかを考えることは、退屈なことではない。

タイムリープのように、同じような状況という「過去」に戻って「未来」を書き換える。まずそのことに妙味があることを認めよう。

有限なものに頼る構造自体がダメ

意志の力というものは、1日のうちに限られており、自分の場合は大体起床2時間で尽きる。

そこからは何も考えずに、手癖だけで就寝時まで過ごす。この状態になってから何をするかが、脳にとっては大差なくても、社会的には大きく影響する。

その無脳状態を制御すること。つまりハナから意志の力を想定しないこと。起き抜け以外は何もしたくないし、何もしなくていいなら、最もしなくて良いこと順にやっていく人間であると想定する必要がある。

構造って何?

では、実際の行為をできるだけ社会的に、あるいは身体的に望ましいものにする装置を「構造」と呼ぶとして、その構造とやらは一体どのようなものなのか?

それは得体の知れない、曖昧模糊としたものでありながら、「言葉で書かれた物理的な行為」によって操作することができるものである。つまり行為と相互関係にある。

そして、言葉による解錠は、物理的な行為に対して行われ、さらにその行為が、構造に作用する。望ましいものに書き換えられた構造は、望ましい行為をもたらす。

このプロセスを2つの段階として区別する必要があるように思われる。特に個人の中で完結する構造に対しては、行為を経由しない言葉で作用することは難しいようだ。

言葉→行為→構造

意識は端末にすぎない

言葉→行為→構造なるプロセスを、わかりやすく例えることができるものはあるだろうか?

サーバーに対して、端末から実行文を入力し(「入力」し!)働きかけることは、むしろ人間の言葉と行為と構造へのアプローチを端的に応用したものですらあるように思える。

この時、有限なる意志の力が及ぶ領域は、言葉と少しの行為までだ。そこから先は働きかけることができるだけで、制御したり自在に操れるものではない。

デバッグせよ

そうした制御不能の構造を経て、出力された愚かさは、エラーメッセージのようなものかもしれない。

それを無視するのではなく、構造のどこに由来しているのか?どのように書き換えるべきなのか?ということにのみ、限られた意志の力を使えと言われているような気がしてきた。


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