譫言を読む-おじさん小学生の譫言ふりかえり【おじさん小学生の譫言vol.38】
道具として使った思考のメンテナンスをするぞ〜
って、37本もある…(ので数日に分けて振り返った)
この内容にはちょっと隙があって、UPS(独自のウリ)は、かならずしも高い能力によって形成されるものではないということだ。
高い能力に基づいて獲得できたUPSは有用である可能性が高いということに過ぎず、人間は(ある種不幸にも)生まれ持ったUPSが必ずある。
そのどうしようもない、ウリというより単なるクセの価値を、最大化する環境とギミックを見つけること。それは「平均」を理論の前提に据える資本論が意図的に取りこぼしている領域をハックすることではないか?と今は思う。
「期待」することは行動を鈍麻するが、「予測」することは、無駄なことを継続することに有用である(無駄に有用???)この2つの厳密な区別がまだ自分の中でできていない。
リアクションは多ければ嬉しく、少なければ虚しい、ということではない。その多寡自体が情報である。どっちでもいいという態度を、余裕ではないものに担保させるメカニズムがあるとしたら、それはどんなものだろう?
それが「無頓着」なら、そもそもその無駄なことを継続することができないので違う。
いやまあ、わからない人はわからないことだし、わからない人ほど「なるほど!」って言うだけで行動が変わらない。
2ヶ月後に「メタ認知は通過儀礼によって獲得される?」という問いにつながったんだったな
暗号に思想を混ぜるいつもの手口だ。見えないままにする重要性、人間を手段とする別の主体、回収可能な不確実性への存在の投擲。
愚かで傲慢ではあるが、飢えてはいない。満ち足りているがさらに求めようとするので強欲ではある。
実際にそういう人がいたんだよな。本当にもったいなかった。
テンションが高い
のちに「ゼロコスト」は作業負担が軽いだけでなく、自己完結していなければいけない(サンクコストを発生させない)という条件があると分かった。
文章の一部を強調するやつ、読めるときと受け付けない時とがあるな
これは本当にそう。俺は人からものを教わることができない。
この記事も、特定の誰かを想定して書いた記事だった。
今はそれぞれの部屋に勾配がついているな
雑に寛容であることが、正確であるよりも望ましい未来を招くならそうする。
結局公衆での作業通話も止めたし、かなり抱負通りにできている
映画観ようぜ〜!でも作業中も流せる種類のコンテンツも欲しいところ
完全に内容を忘れていたので、記事にし甲斐があるというものよ
今は別な理由で、自分の物理的行動を制御し始めているので、もう少ししたら新たに書き留めておこう。
たぶん脱線をするかしないかの時、クソデカ大声で「NO!!!!」と叫ぶことに意味があるという気がしてきた。大袈裟に脱線に対してNOと叫ぶと、3時間以上作業できる。
いったん自分のやることに集中して、また少し弛んだら、色々書いていきます。
今は感情の3要素を応用して、心で思い、行動に反映させるが、伝えない。というのを試しています。変化だけを生成する。
社会的なニーズに応えることは難しいが、目の前にいる人のニーズに合わせることは割と実現可能なようです。
「きっかけがあれば完成する状態(テンパイ)」を維持するというアイデアが新たに生まれた。思えばこの頃よりもルーチンが強固なものになっている。
最近やっと、心から結果を期待しないで済むようになってきた。空虚で寂寞とした無駄でいい。無駄がいい。
(ここで振り返り作業に3週間くらい間が空いた)
ちょうど確定申告の作業を、一週間ぶりのコーヒーを飲んで1日一気にやった。やりたくないがやらなきゃいけないことに対する異常なハードルの高さを突破する方法(興奮の再デザイン)は、そうした刺激のまとめ払いをするのではなくて、毎日持続的に最低限で回すことなのだろう。結局反動で朝までゲームしてたし。
タスクとゲームの間に明確に存在し、これまで無視し続けていた差異として「好感情・嫌感情」がある。ここのコスト感が極端なのを、なんとか薬理の力を借りずに構造で絡め取りたい。
何かを「やる」のではなく、何かをしている私が「ある」
「間違ってるところがある気がする」などと書いているが、それ以前に文体のクセがすごいな!「羹に懲りて膾を吹くが如く」って…おじいちゃんか?
感情そのものによる消耗はあるが、しかし好感情は進捗に良い作用をもたらす。この時、単純なコスト量としてのみ消耗を、あるいは感情を測定することには、物事を単純化しすぎているきらいがある。
感情は天候に近い、良し悪しもなければそこに消耗するというより、その影響を計算に入れる。という態度がふさわしい。怒りなら怒りに合った、悲しみなら悲しみにあった「型」があるだけで、そこから逸れてしまうと確かに著しい消耗が発生する。つまり感情即消耗ではない。
これはその通りなのだけど、問題はその言語化作業にどれだけの時間と気力を分配できるか?ということだったりする。個人的には作業の進捗を妨げずに言語化を行う方法を見つけたけれど、文字ではなく発話なので一覧性・検索性に欠ける。自動文字起こしもしてみたけど、それに頼るくらいなら一文に要約するくらいのことでも十分だったりする。
客観的な視点には、こうした時間軸のずれた自分との対話も含まれるのだろう
怠惰と強欲ここに極まれりという感じ。これは普段から思っていることなのであんまり目新しさはない。
「好きだから(やらずにはいられないから)やる」しか勝たん。ということは、やりたくない時はやらない。毎日やってるやつは、毎日でも足りないからやってる。
で、それを心の底からやれる人はほとんどいない。いないっていうか、他の人がどうかはどうでもよくて、ただ単に、俺はそうではない。
だから「心の底」に届くように手を伸ばすことが必要で、それは飢えや焦りからでもなければ、虚栄からでもなく、ただそこに、心の底があるので伸ばす。
もちろんコンディションのピント(なにそれ?)が合っている時に限る。
これを読むと、全体のコスト分配とか別にどうでもいいから、ただ文章を書きたいから書いてます。と書いてある。そうだよね、わかるよ。
2行ずつの改行が続くと目が滑ってしまうな。
「幻覚によって生じた不快」については、最近「不快よ消えろ。喧騒よ去れ」と唱えるだけで、本当に少し楽になるということが判明した。
不快も喧騒(とくにSNSの)も、自分が選んで見出しているという事実を忘れがちである。
ここで見落とされているのは「期待」である。失敗をする時に「失敗することに失敗する」可能性に目が眩んでしまうことがある。
口では「まあ、どうせうまくはいかないんだけどね」と言いながら、頭の中では世界的に注目されてインタビューに答えている自分がいる。愚かで傲慢なやつめ!!!
そこはもっと幻覚を加速させて、そのような都合の良い妄想が、妄想にとどまっていること自体のメリットに自覚的になるという方法があるだろう。晴れやかな舞台の裏にどんな苦しみと不安の日々があったことだろうか?しかし妄想なら、その地味で泥臭い部分を無かったことにできるのだ。
そしてその妄想は、目の前の作業とはなんら因果関係がない。因果関係が妄想内で完結しているとも言える。そうした前提にかぎっては「期待してしまうこと」はむしろもっと強化すべき傾向である。なんでもいいから頭を満たしておけば捗る種類の作業がある。
これ何があったんだっけ?思い出したくはないが…
自分の怠惰と強欲と無能とでもギリギリ成立させられる相手からしか、あらゆる作業は引き受けないようにしているので、そこで何か失敗と呼べるものが発生したら、それは単にマッチングの問題ではないか?
5番目はやっぱり覚えている。
己と彼を分けることも、知るのは状況ではなく構造であるということも、どちらも「構造が大事」という話では一貫している。その実践的なニュアンスについて孫子は言っているのか?
むしろ構造「ではないもの」を削ぎ落とすということの効果があるように思える。たとえばどのように見えるか、どのように感じるか。
いつでもそこから離れることができるということ。さらにそこから先にもセオリーがあるということ。
「完結」か「借金」か、良し悪しではなくてそれぞれの「型」であるということ。それを覚えているだけで自分の状態が、どちらに振れているかを判断することができるので便利
怪文章すぎる。でも書いた本人にはわかる。
厳密には起き抜けから少し時間をおいたところに、意志のピークがくる。そこに義務的な作業を全部ぶち込んで、あとは気の向いたことだけをやって過ごそう。
かなり明確に自分の考えていることを文章にできた回。映画また観たくなってきた
この記事を書いたことで、完全にオンとオフが切り分けできたのだろう。オンとは「何も考えずに行動する」で「オフ」は「考えることを最優先する」となる。眠りは広義の思索である
ということで日記をお休みして、確定申告だのなんだのと作業にコストを全振りしていたら、いつのまにか世界は大変なことになっていたのだった。
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振り返ると、今の自分の考え方のクセが、このnoteの記事によって作り出されたものであるということが明確になるし、それでいいと思う。
忙しさがひと段落したが、次はメイン作品を今月中に終わらせるという締め切りがあるので、今週末くらいからまた「オン」にする予定でいる。