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「みんなに嫌われているか、見下されている」という感覚は、脊椎動物として正しい【おじさん小学生の譫言vol.29】

本当はどうなのかよりも、わたしがどう感じるかが重要ならばなおさら。

注意:人を選ぶ文章を書きます

昨日こんなツイートを見かけた

気を病んでものを考えられない相手には、この解答が一番効果的だと思う。

それとは逆の、気を病むたびに、余計にものを考えまくってしまう人に向けて書いておきたいことがある。

体調と社会との軋轢

前提として、努力に対して結果が出ないこと自体が苦境なのではなく、その状況を不快と見なすほど、自分のコンディションが悪い時どうするか?について考えるものとする。

誰でも努力が実ることは稀で、他人には表面的なことしか目に見えないという、この世界のセオリーが、理屈で分かっていても感情を制御できないほど、精神が病んでいる状態であることを、まず認めてもらいたい。

その上で、そうした異常ステータス時というのは、生物としての生存可能性が下がる。ただちに寝て休んで過ごすべきだが、社会関係がそれを拒むことが多い。

どうせ次点として「それでもやるべきことをやる」を選択するのなら、感情的な負の作用を、都合のいい理屈で和らげたほうが進捗も出るだろう。

すでに嫌われているし、見下されている

よくある「嫌われる勇気」とか「評価を気にするな」とかいう話ではない。

厳密に、関係性を認めることができる人間同士は、どれだけ親しい中であっても相手を必ず嫌っているし、見下している。という話である。

それはお互いが有機的に生存を暗黙の目的としている生物であり、かつ物理的に別個の個体であることから容易に導き出せる。

相手は自分を殺すことができるか、あるいはその可能性が十分に低いかどうかは、その限りにおいて最重要な情報だからだ。

私を脅かすものは嫌うし、私を脅かさないものは見下す。そうやって限界まで生存可能性を高めることに成功したのが、今日の人間の祖先たちである。

脊椎動物なので仕方ない

しかし、私たちはそこまで殺伐とした社会を生きているわけではない。なぜか?

「嫌う・見下す」だけの原始的な情報判断を、豊かにバリエーションさせることが群れを形成し、結果的に個別種の生存可能性を上げる。

ということが歴史的な制度として定着したからだ。もちろん、それは人間が人間種になるもっともっと早い段階、初期の脊椎動物段階(ピカイアみたいな)で実現してたと思うのだけど…

ともかく、冒頭の状態は、その原理原則に立ち返っているだけで、殊更に落ち込んだり塞ぎ込んだりする理由にはならない。誰かを尊敬することは嫌悪のバリエーションであり、誰かを愛でることは見下しのバリエーションである。

それをどのように問題視するか?感情に隷従する論理

私たちは、常に他者を嫌いながら見下して生きている。ただし、それでも他者との関係性が維持されるような、感情のバリエーションを蓄えていなければいけないルールのゲームに生きている。

それでも構わないと、思えるわたしで、いられるかどうか?の方がよっぽど問題である。そして、それは体調の悪さで簡単にダメになってしまう。

すると、この世の真実がわたしに襲いかかってくる。全てに意味も価値もなく、ただちに死んだ方がいい人間が、全ての関係者に嫌われているか、見下されているか、その両方であるということ。

それはそれで何の問題もないと、あっけらかんと思えないのはなぜか?と問わないことは、論理を都合よく利用していることの証拠である。

では何のために都合よく利用しているのか?その精神状態と状況の悪さを理由づけするためだ。

こんなに頑張っているのに成果がでないのはなぜ?自分以外だけうまくいっているのはなぜ?こんなに苦しいのはなぜ?

そんなものに理由はない。少なくとも単一のものに言語化しきれるものではない!

裏を返せば、それは「全ての不快には説明可能な因果関係がある」という幻想を抱いている証拠でもある。

そこまで論理を信用しているなら、せっかくだし、そうではないということもまた論理によって導出すると、運気がアップすること間違いなし!(急にどうした?)

不快でありながら、とらわれないこと

論理を追求できそうにないなら、「なんかわからんが全部気に食わねえ」ことに理由を求めずに、身体のメンテナンスに勤しんでほしいし、それが難しい状況であれば、全部気に食わねえ〜!と言いながら手を動かしていくこと。

不快に苛まれながら「これは幻覚によって生じた不快なので大したことはない」ということを、無理に言い聞かせるのではなく心底納得できれば、これには実益があるものだと信じたい。

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