現実を改変する「反復への介入」と、それに対する弾力性【おじさん小学生の譫言vol.21】
今回はよくわかんねー暗号みたいな文章になると思います(なった)
私は・それを・繰り返し・行うことが・できる
生活世界を構成する前提として、観念統合というものがあるとして、反復と反復への期待が重要な役割を果たすのなら、生活世界は反復によって維持されている(という側面がある)と言える。
では世界をより望ましいものにする経路として、「私は・何を・繰り返し・行うことが・できる」のかを実践を通じて明らかにする必要があるが、
これは単に「何を行うと望ましい世界に至るのか?」という問いではない。毎朝6時に起きてジョギングすると、私がやせて健康!という望ましい世界に至ることはよく知られている(という形で、ある一定以上の個人とその集合に信頼されている。と私は判断している)
「誰が・何を・繰り返し・行うことが・できる」のかを無視しがちなのは、参照可能なものが「他なる『私』たち」以外にいないからだ。「私は」を離れること抜きに「参照」そのものが難しいとも言える。
というわけで、他なる想定へ一度遠征した後、「私は(私が)」の領域・階層に戻って、私の生活世界を改変するための手順は、まず「私は・それを・繰り返し・行うことが・できるか?」である。
一度できるのと、繰り返しできるのは何が違うのか?
次に「私は・それを・一度だけ・行うことが・できる」のでは、どうして望ましい生活世界を形成できないかを考える。
一度だけ行うことで、人生を劇的に変える行動というものはある。一度だけ声をかけた。一度だけ公開した。一度だけ申し込んだ。そういうきっかけで生活世界が大きく変わるということがあるのなら、なぜ反復のことを考える必要があるのか?
反復は改変だけでなく、その後の維持に作用するからだ。反復自体が維持そのものであると言ってもいい。大きな生活世界の変化が訪れることはままあるが、そこからその世界の前提を書き換えるために、あるいは書きかわった証拠として、反復行動の変更がある。
そして一撃で世界をひっくり返すような、いわば「事故」的な出来事は期待できるような頻度でも、期待に沿った方向へでも発生するものではない(残念なことに、期待とは真逆に発生することも多い)が故に、相対的に世界を劇的に変更するだけの力を持ちうる。
このことは今回のテーマである「私の生活世界の改変」の前提である「望ましい(=望んでいる・期待している)」という要素と相反する。一縷の望みに賭ける人たちのことを否定するつもりはないが、もしそれが実現するならば、背景にはその巨大な事故のためのインシデントが既に、暗に、反復されているはずである。
望ましい生活世界の望ましさと、それを維持する観点から、「一度だけ」起こる出来事はあるにせよ(あるいは全ての反復は一度だけの出来事であるにせよ)、それを待ち「望んでいる」のでは、悪手であると言える。「私は・それを・繰り返し・願うことが・できる」のだけでは、改変そのものに至ることは難しい。
既存生活世界の猛烈な抵抗
そんな言うても、私がこの生活世界にどんな不満を抱いており、それを解消するために書き換える部分がどこなのかが判明し、物理的にも精神的にも、そのための行動を反復することが可能であるように思えても、なっかなか期待通りに物事がはかどらないのも周知の事実である。
このうまくいかなさ、世界を改変しようとする者に立ち塞がる一種の抵抗力を、書き変わる前の生活世界が性質として持っている弾力性と解釈することが、改変をやりやすいものにはしないだろうか?平たく言えば「新しいこと始めたら、最初はしんどいのが当たり前」という話である。な〜んだ!
想像以上の激烈な作業負荷は、やりたいはずのことが実はやりたくなかったり、自分だけが何事も成すことのできない史上最悪の人間個体であるために生じるのではなく、既に成立していただけの強度を持った生活世界の必然的な弾力性であると捉えれば、自らの意志をへし曲げる必要も、感情的に消耗する必要もない。
やると決めたことができない。できないくらいしんどいのは、「それでもお前は世界を改変したいと望んでいるのか?」という生活世界の問いである。その問いに、言葉や意識だけでなく、主に物理的な行動として是と答えることができると、改変世界はデプロイされる(実際の運用環境に展開される)
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ということでコラムをはじめ、いろんなことを毎日やろうとすると、毎回猛烈な抵抗感が発生している。一方で、一部のルーチンは何の負荷も感じずに毎日できるようになったので、まだ望みはある。
それに、できない理由が腑に落ちれば、それはもちろんできなくてもいいし、たまにやるのでも、一生やらないのでも構わない。やりたいことを全てやりたいのではなく、やれることを全てやりたい。