怠惰な弱者として、脳死麻雀戦略を正当化できるか?【おじさん小学生の譫言vol.30】
正当化できなくても、すでにそれ一択ではあるが
アイデア出しの定石を知る
かつて、イベントなどの企画を主な業務とする企業の方に、その仕事の一部を見せてもらったことがある。
そこにはまず、アイデアというものを出すための、精緻な前提があり、それに基づいて用意された大量(100件超)のアイデアを、さらに第三者が評価する。という方法を取っていた。
こういった手法は、おそらくその業種や企業独自のものではなくて、コピーライティングや書籍のタイトルづけ、有名ミュージシャンの歌詞の付け方などについても、同種の方法を採用しているのを、見たことがある。
それで、自分でもやってみたところ、すぐさま向いていないことがわかった。
当時はまだ自分にも、やる気めいたものがあると勘違いしていたが、今なら分かる。あらゆるノルマは怠け者の原則に反するのだった。
弱者の解像度を上げる
あれはランチェスターの法則でいうところの「強者戦略」だったのかもしれない。資源の潤沢な立場においては、いかにつまらない・可能性のないアイデアを世に出すことなく、予め潰しておくことにリソースを投下できるか?が重要だということは腑に落ちる。
では、アイデア出しにおける「弱者戦略」というものがあるとしたら、それはどんなものだろう?まず、アイデア出しにおける「弱者」とは何かということは、考えるまでもなく以下の通りである。
これだけではアイデアどうこうではなく、単なる「弱者」である。しかし、そう不貞腐れる前に、もう少しだけ解像度を上げてみるとどうか?
つまり、リソースがなく省力化が最優先であり、アイデア出し以前にやることがある。ということになる。さらには、実際のリソースの有無に関わらず、省力化を最優先にしている傾向もありそうだ。
失敗しよう
次に、「アイデア出し以前にやること」とは何か?それを省力化の限りにおいて実践するならどういった形か?ということを考える。
手がかりは先述の「強者戦略」にある。富める者が選ばなかった選択肢、選ぶことができない選択肢は何か?
それは「失敗すること」、それも「失敗するとわかっていて失敗すること」ではないかと仮定する。それがアイデア出し以前にやるべきことなのではないか?
サステナブルな失敗を設計する
ただし、どういった種類の「失敗」をするかについては限定する必要がある。
お金を湯水のように使って放蕩する種類の失敗はそもそもできないし、派手に転べば下手すると即死するくらい弱い。
そこで、「リターンが期待できない代わりに、リソースも不要でダメージが少ない失敗」を重ねる。これならば、省力化の枠組みの中で失敗し続けることができる。
セオリーと失敗は表裏一体
「失敗するとわかっていて失敗し続ける」ことが、アイデア出しの前にやることである妥当性は、別の観点からも高いと言える。
なぜなら強者の「アイデアを100個以上出して潰していく」手法は、その失敗の連続を、シミュレーション上で終わらせていることと、ほぼ同義だからだ。
逆に言えば、実践を洗練して生まれた強者のセオリーを、やる気と体力と知識が必要ない形に逆行させたものが「失敗し続ける」なのだということでもある。
このnoteの知見が大変素晴らしかったことを思い出す(俺も感銘を受けた一人です)
しかし、この構造を理解した上で、自分が「どんなに努力しても」などとは口が裂けても言えないほど、あらゆる分野において怠惰であり続けたし、これからもそうあろうとするならば、同じ仕組みを逆転させることを自覚的に実践する道を選びたい。
脳死麻雀
手癖と反射的な判断だけで夜通しやりつづける麻雀に近い。雑に受け手を組み、何度も振り込んで、たまに安手で上がって、負けが込んでも淡い楽しさに囚われてやめられない。何かを賭けているわけでもなければ、反省も目標もない。これなら知的体力も必要ない。
わかりやすい例えとして麻雀を選んでいるだけで、徹マンの経験はないのだけど、ビデオゲームやSFで夜が明けたことなら無限にある。
それは怠惰の極みでありながら、側から見れば、「一つのことに一身に取り組んでいる様子」でもあるし、「失敗するとわかっていて失敗し続ける」ことでもある。
ここに弱者としての活路がある気がしてならない。娯楽のジャンルで実現した「『熱中』の型」を、望ましい分野において再現し、率先して失敗を繰り返すことで物量に代替し、それをアイデアの礎にすることができる…
それくらい都合が良くなければ、気に食わない。
まとめ
この手法が、まかり間違って何かの結果をもたらしたとき、はじめて手法として正当化されたと言えるかもしれないが、何事かを期待して一喜一憂すること自体が、既に省力化最優先の原則に反している。
したがって、何の意味もない些細な失敗を延々し続けること。思考も感情もなくそれを続けて「しまう」ことの境地に至ることなしに、この怠惰は成就することがない。
つまり、成就しなくてもよい。その上で、それをやっていこう。