SNSは夜の17時以降のみとする【おじさん小学生の譫言vol.41】
ツイートしたいことが自然とは思いつかない時は、過去の連ツイをサルベージするのが良さそうだ。さながら二毛作の如し
今思うと、やりたいことができない理由はそれだけではないな。
徒労を回避する合理的判断「やらない」
過程を楽しむにせよ、結果を追い求めるにせよ、大枠で「やりたいこと」ができない理由は、失敗を恐れる心だけではない。
「やりたいこと」に付随する圧倒的量の「徒労」。つまり快楽を伴わない作業段階の存在である。
文章であれば書きたいことではないが書かなくては成立しない部分、イラストであれば塗りつぶしや線の修正、ゲームなら序盤の固定操作
読書、楽器の練習、動画編集、あらゆる行動には、快楽を伴わない作業段階が発生し、脳はそれを「不快(あるいは無快?)」と判断する。
これを回避するために最も合理的な判断は何か?それは「やりたいことを、しない」ということである。こうして「やりたいのにできない」日々が続く。
「それでもやってしまう」をどう錬成するか?
快楽の無風地帯を突破すること、ひいては突破することを前提に行動を開始することを常とするにはどうしたらいいか?
ひとつは「快楽がないという苦痛を快楽とみなす」ということ、もうひとつは「快楽がないからといって回避することによる苦痛を回避する」ということだろう。後者の方が我々には馴染みがある。
次点で「別経路から作業の快楽を供給する」、最後に「快楽のない行為自体を快楽にする」が考えられる。
「快楽」といっても、実際は非常に仄かなものでいい。問題はむしろ実際の作業中にあるのではなく、作業段階を予想し、行動を開始するかどうかの判断の瞬間に発生する。
快楽供給装置としての習慣化と欠点
快楽というか、刺激として、それほど強いものが必要ないのであれば、そこに「習慣化の快楽」を当てはめることができる。
毎日決まった時間帯に、決まった手順で作業することで、緩やかな反復に快快さを見出すことはできるだろう(人による?)
しかし習慣化には弱点がある。習慣が外的要因によって途絶えた時、それを立ち上げ直す時のコストが膨大になるのだった。
だから「やりたいこと」を習慣化してみても、すぐにできなくなる。予定をキャンセルせざるを得ない事態はどうしても起こる以上、また別の仕組みが必要になるだろう。
「何もしなくていい」&「ついやってしまうこと」の封鎖
もっと根本的な手段は、まず、せねばならないことを最小限にして、時間を余らせること。
それだけだとツイッターを見て1日が終わるので、SNSなどの快楽の供給経路を断つ。これが最も効果的な対策だろう。
それができねえ〜〜〜
それができれば苦労しねえ〜!
と思いつつ、まったく不可能というわけではないので、今から17時くらいまでSNSを断つことにする。あるいは、SNS鑑賞時間帯についてツイートするのもいいのかもしれない。
それでも徒労は徒労なのだろう。しかし不快とか快楽が無いとか以前に、振り返って後悔のない時間を過ごせるようになりたい。後悔なくSNSで1日潰せるのならば、もちろんそれでも構わない。