優しさと残酷さのエッジを自分で決める【おじさん小学生の譫言vol.41】
みたいなことを考えていたはずが、だんだん逸れていって
なんか別の話になってしまった。こっちについて書く。
私が好きな人たちと、そうではない人たち
元からかなり他人を選り好みする人間なので、一緒の時間を過ごせる相手というのが限られており、さらには力になりたい、リソースを割きたいと思える相手はそれ以上に少ない。
すると、ある人には優しくあり、ある人には冷たく当たる(どころか、説明なしに突如関わりを断つ)ということが往々にしてある。
境界が無いこと・境界が過剰であること
その差異において、最も自分の残酷さ、残忍な態度は際立つ。公的な立場にあったり、影響力?が大きい人間だったなら、こういうことにも、もっと手心を加えるものなのだろう。
しかし、聖人たるべく、その境界を持たず無限に優しさとリソースを流出させるのであれば、無限の消耗はもちろん、その費用対効果も希釈されてしまうようだ。
また、その境界を正当化するために、相手を非難したり苦境に追いやるような過剰さがあれば、道理がその人を牙にして、襲いかかってくることもあるだろう。
悪は隠れる時にもっとも発揮される
だから悪人であること、悪意を幻視されることを引き受ける。私は倫理にもとる価値判断において、不平等と理不尽の発生源の一つになることを認める。
その悪を、社会的なものの背後に隠すことを選択しない。人種・性別・世代・境遇などのカテゴライズを根拠に正当化できるようなポピュラーな境界を採用せず、理由も不明瞭なままで、極めて個人的に残酷な境界線を引く。
だから自分が逆の立場になって、誰かの個人的な境界の犠牲となり、崖外れに落ちることも是としよう。憤ることも、理由を問いただすこともしない。
そういった、非人間的な公平性に取り憑かれている部分がある。
逃れられない人間関係を持たないという有利
しかし、こういった態度も、不快な人間関係から逃れられない状況ではないことで、はじめて実現するものではある。
苦痛を強いる相手や、尊敬できない相手との関係性を、何らかの理由で維持しなくてはいけない状況であれば、引きたくても引けない境界線があるだろう。
私だけの崖として
また、境界線の先の人と連帯することこそが「社会」の要でもある。したがって、自ら「逃れられない人間関係」を獲得しに向かう場面もあるだろう。
その上で、優しさと残酷さの差異によって生まれる「崖」の存在に自覚的であること、またその境界線を、社会に言い訳が用意されているような境界線と重ねず個人的にもつことを、自らの取るに足らない信仰に応える態度として採用したい。