大失敗したときこそ、能書きの成果を試す【おじさん小学生の譫言vol.31】
この年でしていい種類ではない失敗をしたので、一般化して傾向と対策を練る。以下駄文
歪みを補正しながら考える
過度な悲観や無能力の誇張は、感情に対する間違ったケアであるということをリアルタイムで自覚する。冷酷な事実は「できることと、できないことがある」以上でも以下でもなく、できないことをするとできない。
という当たり前の導出を「俺は何もできない」という認知に結びつけることには、論理の的外れな飛躍がある。
むしろ何事かをすることのうち、自分の無能力の払拭を隠れた主題にしたものには、端的に下心がある(隠れているという意味ではなく、倫理に悖るという意味での「下」)
自分の能力の範疇を超えたことをやろうとすることは、自発的な限りは常だとしても、それを引き受けることは相手に対しても、怠惰に対しても不誠実になる。
限定的に開かれた領域を、当初よりもさらにもう少し大きくトリムすることによって、事故の再発可能性を下げることができるだろう。それは具体的な行動として、ただちに採用できる。
できること・できるようになること
そのうえで、本性としての「できない」と、後天的に習得可能な技術における「できない(足りない)」とを、どのように区別するべきなのか?を考える必要がある。
「できない」だったものが「できる」になったケースに、なにか共通する傾向がないだろうか?そのためには、自分がこれまでに何ができるようになったのかを思い出さなくてはいけないが…
案の定、感情的になっているので、そんなものはないと思いたがる自分がいるが、それは明らかに歪んだ認知であり、後天的に習得したものがなければ、こうして文章を作ることもできない。
では何もないのではなくて、特筆すべきものがないのではないか?なぜなら、後天的に取得できたものが効果を発揮しているのであれば、今回のような(あるいはこれまでのような)事態は発生しなかったからだ。
これもまた、過度な普遍化という認知の歪みである。できないことをしようとすることは、できることが不十分であることと因果関係がない。首を取り外して生きることができないことが、その人が生きることができるために不十分であることにはならない。
「できる」ではなく「うまくいく」
この場合は、物事が「できる」ということが、どういう意味においてなのかを確認する必要があるだろうか。
「望ましい結果をもたらす」ということが「できる」ならば、いよいよ本当に自分にできることには「特筆すべきものはない」ので、もっと解像度の高い定義を考える。
「想像していた(あるいはそれに近似の)結果をもたらす」ならどうか?それもまだ不正確である気がする。一例として、どうなっても構わないと振る舞うことが「できる」ことは、想像しないという態度をもって、この定義を反証する。
だから、ここでは行為の実現可能性ではなくて、行為における問題の無発生を取り沙汰している?「できる」というよりは「うまくいく」ことについて考えているとしたほうが、少しだけ正確さが増す。それは「しない」ということで「うまくいく」ことを包摂できる。
うまくいくこと自体には再現性はない
となると、本性として「できる」ことと、後天的に「うまくいく」こととして、両者を区別することができるだろうか?同時にそれは後天的に「できる」ように変化することは、仮に存在してもほぼ考慮しない、という態度でもある。
では今回は?本性に反していることを、それでも問題なく対応できなかったので、ダメだったということではないか?「できない」ことを、「うまくいかない」ままやろうとしたら、それは語意からして明らかに「できない」
ではなぜそれが「できる」あるいは「うまくいく」と事前に予測したのか?予め不可能だと分かった上でやろうとしたわけではないはずだ。
その誤った推測はどこからきた?「できない」まま「うまくい」った経験があったか?だとしたら、そのような経験は判断における参照の対象外にするべきではないか?
そこでまた、そのようではない経験(できないままうまくいったのではない成功体験)は一切存在しないと思ってしまうことも、感情の形に歪んだ認知である。どうも感情というものは、論理を省略するために粗雑な誇張を繰り返しては顧みない。
かえって極端な表現「一切」や「絶対」が立ち上がってくるとき、そこには論理を征服せんとする感情の企てがある可能性が高い。
それはともかくとして、自分の本性にしたがって物事がうまくいったという経験は、そう簡単に思い出すことができない。どのような行為にも、必ずどこかで無理がある。
それは怠惰を本性とし、怠惰が何事かを行為することと反している以上、そうならざるを得ないのだが、すると「できないのにうまくいったこと」はむしろ経験しなかったことの方にある。
人を(少なくとも直接的には)殺さなかったと確信できることは、能力に乏しい人間にも許された善ではあるが、ではそれを単に一線を超えた暴力の結果であるとみなし、(そこまでではない)暴力を発揮したことがなかったか?と問われるならば、それは疑わしい。
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感情的なものをいったん度外視しても、「私には『できることでうまくいった経験』に乏しく、またそれが今後も必要になる場面があるだろう」ということまでは言ってもいいかもしれない。
「できること」が「怠惰であること」だけだとしても、それを応用することが、予想以上に真剣に取り組まなければいけない議題であるということの表れが、今回のように生活世界における象徴として、これからも頻繁に示唆され続けるのだろう。やっていくしかない。