什器は踊る 2024/11/16でち日報

仮説がヒットするとかなり嬉しいし、それを実現できるだけの段取りが組めたということは、同じくらい嬉しい。

ロマンデッキがたまにぶん回るのではなくて、安定した動きをしつつ、独自のコア構成をもつデッキの方が好みである。

というトレカの例えも、一つの「構造的理解」である。

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ここで何を、自分が構造的理解と呼んでいるのかが気になる。突き詰めれば言語化はできないのだろうけど、その手前がどこの崖かを知りたい。

目的的に行動することは、行為そのものの快楽を犠牲にしがちなのでなかなか継続できないが、行為自体を快楽するのみならず、「行為自体の快楽に依拠することなく継続できること」へのメタ快楽によって、今回十分な稼働と見通しが立つ事例が発生した。これが嬉しい。

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学習に先立って、おそらくそこにあるであろう体系を幻視する。歴史と属性があれば、頭とケツをもった樹形図めいたものになるし、無時間的な構成であれば、要素同士をつなぐ線と、要素を分類する範囲によってテーブルに広げられたものが見える。

内容よりも先に、その仕組み、容れ物を先に頭の中に用意すること。別に頭の中じゃなくても全然よくて、アウトライナーでも手書きでもなんでもいいので、とにかく容れ物を先に設定する。当然、どのような容れ物なのかはわからない。しかし、容れ物と呼ぶ以上、次に行う操作は当然決定している。「容れる」ことである。

ただ一つの容れ物に容れるのではなくて、あらかじめ、什器が並んでいる。それも格子状に無個性なのではなく、まだ判然としていない個性、疎密のムラがあり、蓋の有無があり、階層がある。あるものとする。

それは見えていない。それは明らかではない。決まっていないこともあれば、そもそも無いかもしれない。しかし、あるものとして組み立てておく。

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具体的な内容は、それに対する限られた手がかりでもある。一つの内容が、もし、構造のここに位置するならば、他の部分はこのような構成になりえる。という、可能性が狭まっていく。

マインスイーパーをもっと複雑にした操作なのだから、当然見当違いもある。しかし間違ったセルを開けたところでゲームオーバーにはならない。間違っていたという手がかりが得られる。負のリスクがなければギャンブルにはならない。

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もっとメタに跳べば、同じゲームをしている上位者なら、どうプレイするか?を幻視することもできる。当然それは間違っているし、気力体力が伴わず破綻することがほとんどだろう。

しかし、そこには不明な構造を想定することそのものがある。たしかレヴィ・ストロースが「どんな分類も、それが思考の道具として機能する限り重要である」というニュアンスのことを言っていたが、

そこに道具的な思考があること。つまり、作用させる対象に先立って、作用するものが想定される、思考されるということ自体に、重要さが宿るということなのかもしれない。これは今、書いてて思いました。

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さてさて、問題は、まず自分がこうしたニュアンスを携えて、生活の中で、主に仕事面で、わかりやすい成果を出すことの先で、

どうやって、この道具としての考え方を、望ましい相手に伝授することができるだろうか?ということである。

こんな構造に対する嗜癖までは不要にせよ、最低限の構造的理解・構造的を引き継ぐことができれば、つまらないことでつまづく人の数も減るだろう。

それはどういう仕組みが⋯、いや、何らかの仕組みがあるものだと仮定して、何らかの複雑な構造があるものだと幻視して、そこにまた、一つずつ具体的な内容を設置していくのがよろしかろう。そのたびに、幻の什器は点滅しながら姿形をゆらめかせている。


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