【短編】気づきと無
修行の世界に身を転じた男がいた。仕事に疲れ、人間関係に疲れ、自信を失い、すっかり生きる力を失いかけていた。
呼吸をするのも苦しいほどに追い詰められ、自らを追い詰め、もはや何をしてよいか分からない。その道の先人たちが頼ったとされる書物に目を通したが、言葉の一つ一つが記号のようで難しく、頭に入らず、にっちもさっちもいかない。
うだつのあがらない人生は、これはこれで仕方がない。ただ、それでもこうして息をして在る。せめて何か生きていく羅針盤のような確たる柱を見つけることはできまいか。
答えなく、何を考えることもなく、ゆるやかな小丘をのぼった。頂上というほどでもないが、視界の開ける土の広場まできたところで、腰を下ろした。
幸いというべきか、初春の空は晴れ渡っていた。ただ、自らのこころの内は自己を否定する詰問の言葉ばかりが暴れている。鼻孔をくすぐるのどかな風の、ありがたさを味わえない。
うーん
なんともしようがなく、男は目をつむった。
あらゆる苦から解き放たれた存在になることは、できないのか。
少し考えを転じてみた。過去現在未来、そんな人間は、存在は、いたことがあるのだろうか。
悲しみなく、自己否定なく、絶望もなければ憎しみもない。あらゆることに恬淡としている。
仏は、そうだったのだろうか。歴史の書物を頼りにするしかないが、そうだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。心裡を推し量るよすがは、ない。
重い息を吐き、地面に、たまたまあった石ころに視線を落とした。
石ころには、喜びも悲しみも、ないだろう。在ることに理由も目的もなければ、その存在に良くも悪くも意を掛ける相手もいない。あけすけにいってしまえば、なんの意味も価値もない。
求道者の目指す「無」と、どう違うのだろう。
あらゆる苦や期待から解放されている。いや、自ら意志すらしていないから、「解放」という言葉も当たらないだろう。あらゆる価値観の押し付けを、意識を持たずして、かわしている。
なんと自由な。
取るに足らない存在と見下していた「もの」の世界に、あらためて意識を寄せてみた。大地があり、地球があり、太陽の周りを巡る公転運動がある。生き物の意図とは無関係の物理法則によって、ものは形作られ、破壊されを繰り返している。そこには成長も進化もなく、ただ変化がある。目的もなければ失敗もない。救いもない代わりに、絶望もない。
輪郭もあいまいな「価値」の世界に浸かってきたが、ふとその境界線を越えて見回してみると、まったく異なる景色が広がっていた。私は、価値のない世界に包まれて暮らしている。
かといって、男の心裡が少しばかりでも楽になったり、心の重みが軽くなったわけでもなかった。心に巣食う否定の感情は、意志を持った生き物のように確かな重力をもっていまだ沈潜している。
そのうえで、確たる柱を得たように思った。私は、価値の世界と、価値なき世界の両方に包まれて、存在している。
価値なき世界とは、あらゆる感情、判断、思考を否定する世界である。苦も楽も、善も悪も、名詞も動詞もない世界である。「ない」の集合体にすぎないが、目の前の石ころのように、確として存在している。それが事実だ。
男は立ち上がった。現実の暮らしの中から生まれた、よどんだ感情は瞳の奥に依然として伺えたが、もうひとつの要素が居場所を得たようでもあった。
言葉にするなら、「無」であった。