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2020年12月15日の乾杯

おじさんとおねえさんの今回は、コロナ渦のなかでふたりがたまたま同じ夜に観た舞台、肋骨蜜柑同好会『2020』について感想を語り合います。

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👨演劇のおじさんです。
👩おねえさんです。こんばんは。よろしくお願いいします。
👨ちなみに、今日はお酒を飲んでいるんですか?
👩今日はまだ飲んでないで・・いや飲んでますね。
👨あはは。
👩飲んだのを忘れていました。
👨なるほど。
👩はい。あの、贔屓にしているとても好きな作家さんの新作の小説が出たので、ひとりで用事を終わらせて帰り道に、早い時間に少しだけ居酒屋に行って少し読んでから帰ってきましたね。
👨なるほどね。少し飲んで読んでから帰ってきたんですね。
👩そうです、そうです。ささ、今日は先日別の日に観てきた・・。
👨肋骨蜜柑同好会の話ですね。
👩そうですね。はい。
👨ちょっと日が経ってしまったのですけれどね。
👩そうですね。あっ、別日じゃない、同じ日だ。
👨同じ日でしたね、あははは。
👩大変失礼しました。
👨いえいえ。
👩いやぁ、これはいろんなご意見があるんじゃないかなぁと思うんですけれど、私はとても好みでしたね。
👨あの、なんだろ、私は作演の方の、フジタさんね、こう演劇に対しても抱いているものがなんかあふれ出るような部分があって、そこのところっていうのはちょうど今のコロナの時期とも重なって、なんかいろいろこう考えされられるお芝居ではありましたけれどね。。
👩うん、そうですね。小説の話から入ってなんなのですけれど、元があるものっていうのもありますけれど、あの、作品自体も、モチーフは重いというか、軽いものではなくてけっこうしんどいシーンというのもあるのですけれどね、でも、私はこう小説を目の前で観ているようで、なんだろ、出来事を見守っているので、完全に観測というか傍観・・?向こう側の話っていうひとつ透明な壁があるような・・、
👨ああ、なるほどね。
👩うん、だけど、だからこそというところもあるんですけれど、そういう見え方をしていたので、とても面白く、そのあともいろんなことを考える。あの、なんていうんですかね、それこそ感動したり涙が出たりとか溢れた感情がこちらにぶつかってきて心が動かされるみたいな舞台もありますしいろんな舞台があると思うのですけれど、あの『2020』はとても冷静で、観ているときに。だけど、だからこそ、すっと入ってくるというか、私は。それが、作り手が伝えたいものかっていうはわからないんですけれど、こちらが勝手に受け取ったものではあるのですけれど。今のこの時に観れて良かったなっていう・・、人ごとではなくっていう気持ちにもなりましたしね。あの、藤田さんがツイッターで「叫び」っておっしゃっていたのですけれど、ああそのとおりだなって。ストンとこう腑に落ちた気がしましたね、その言葉に対して。
👨私は今回、ほんと何の予備知識もなしで観にいったんですね、この公演。一切、だからその小説の話なんかも全然知らないで、なんにもなしで観に行ったのですけれど、ただなんだろ、今のものを作るとか創作するっていうことがあるじゃないですか。で、たとえば何かを伝えるとか語るっていうことってあるじゃないですか。だから、一見みんなお気楽極楽にやっているようなのだけれど、実はその裏で世界というのはいろんなそういう力が動いているともおもったし、で、それに無意識で縛られたり流されたりしているっていう部分もあるっていう感じもしたし、あと、どうしても今って観る方も作る方も忘れようとおもって、意識をしないようにっていうのは全然あるのだけれど、でもやっぱりコロナの世界で観ていることだから、だからその中での表現するって言うこと、それば別に藤田さんだけではなくて、いろんな劇団を観ていて最近そういうのを凄く感じることが多いのですよね。
👩うんうん。そうですね。私も最近やっといろんな舞台を観れるようになったというか観にいくようになったのですけれど。今怖いけれどね、コロナもまた増えているし。その、やっぱり・・たくさんは観ていないから、私が観たのは偶然そうだったのですけれど、コロナがなければこの舞台はなかったというものばかりというか。
👨そうなんですよね。
👩もちろん、そうなんだけど思うのだけれど。こう振り返ったり新しいものを観たりというものが、なんかね、ほんと「叫び」に聞こえる、演劇の表現の世界からの。うん、うん、そうだね。
👨やっぱりどんどんそうやってみんな今のそのコロナの世界に慣れて、その中でも7月とか8月だったらみんな生の演劇ができたって言うだけでパチパチ拍手をしていたのだれど、でもそれからいろんなことができるようになって来たから、むしろ、そういう可能性がでてきたからこそ、不自由さみたいなことっていうのも、あるいは危機感とか心にあるものもそのまま旨く出切れないもどかしさとか、やっぱり作演の方もこう抑圧されているから、だからこそ、こういうものを作ろうとかっていうことがどこかにやっぱり見え隠れはするのよね。まあたとえば、櫻井さんがどう考えているかは知らないけれど、MCRの今回は2本立てで、どちらもこの世の終わりみたいな設定で、しらっと当たり前に訪れる極限の中で人が抱いているものが浮かんでくる話だし、つい先日観た東葛スポーツなんかでも、ここ一番のラップの気合いの入り方が全然違うような気がして。
👩やっぱりね。それは根底にあるなっていうのはすごく思いましたね。作品自体も私はこうここの、なんでしょうね、こう、モチーフはあれじゃないですか。
👨なんというかマインドコントロールがかかったような話だよね。
👩 うん、そうそう。知っている人が観ればというか、そう見える。なんだろうな、演劇をやっていた団体が作家が抜けたことから狂っていくというか・・。共同生活をしながら情報も操作されている。そのー、なんでしょうね、私が個人的に思うことですけど、演劇と、演劇というか劇団と宗教の親和性ってまあけっこうあると思っているんですね。うん、とてもあるなという・・。みんながみんなそんなことはないと思うし、これはもう経験から思う一例なんですけれど。私が、なんでしょう、演劇を始めて小劇場に出てしばらくしたくらいですかね。よく関わらせていただいていた団体は・・・今、過去の話だから言えることですけれど、ちょっとそういう・・宗教のようになっていた。「2020」の団体のようには解散になったことでならなかったけれど。だけど、「2020」の団体はものすごく大きくなっていって、育っていってということなのだろうけど、そのスタート、その生まれ、赤ちゃんみたいなところは多かれ少なかれあるような気はするんですよね。それって、今思えば私は思考の停止だったなとも思う。そこにいれば、守られている。自分が面白いとおもうもののそばに居ることができる安心感というか、その団体にくっついていればみたいな意識があった。楽だからね、誰かに思考を預けてしまう事は。もうそこから出なければ戦わなくていいから。その場所の中では戦う必要はあるけれど、ある程度は守られたところにいることができるっていう楽さが。
👨うん、なんだろ、たとえば自由っていう概念があるじゃない?で、アメリカは自由の国だっていうじゃない。だけど、たとえば今回の大統領選とかを見て、その演劇を観ているときにもちょっとだけおもったんだけれど、結局なにかを信じるほうが楽なんだよね。
👩そうそう、そうなのよ。
👨うん、だからアメリカでもトランプのあの考え方がすごく良いとか、逆でもいいんだけれど、バイデンでもいいんだけれど、そういう風にしてそれを信じることっていうのはすごく楽で。
👩で、私はそれが悪いことだとは思わないんですよ。
👨100%悪くはないのよ。
👩なんだろうな、信じて・・、信じるものがあるという強みも私は確実にあると思っているが、それに身を委ねてしまって、もう・・なんだろ、体重を預けてしまうと違うんじゃないかなっていうその、それが幸せであってそれを選んだのであれば私はその人の自由だと思いますけれど、ただそうじゃなくてっていうのであれば・・、ですよね。なんかそのよく考えなければいけないことというか、で、それが選べなくなってしまうと、それは自分の選択とも違ってくるっていう。段階があるというか、どこがスタートでどこがゴールだとかもないんだけれど。その段階は確実にあって、その段階をすごく観ていたというか、目を醒まそうとしていたというか、自分の人生を自分で選んで生きようとした人を、選べないようにしていたから、もうなんかそれは繋がっているなぁとも思うともいうかねぇ。
👨あの、なにかを信じるときに相対のなかでそれを選んでいるときには全然大丈夫なのよ。でもひとことそこに絶対というのが入った瞬間にとっても怖くなっちゃうのね。
👩うん、そうね。
👨だから、それこそ聖書でも、キリストがまだ生きていた頃には使徒たちっていうのはけっこういい加減でね、キリストに鶏が鳴くまでにおまえは私のことを3回も知らないっていうよっていわれて、そのとおりになって号泣するとかね。けっこう弱さもあったのが、キリストが磔になって復活してその存在が絶対になると使徒達がめっちゃ強くなるんですよ。その信じるっていうことについてね。それこそキリストが磔になったのなら私は逆さ磔にしてくださいみたいな使徒がいたりしてね。で、それは、オウムにしたってそうで、そこに絶対というのが入った瞬間にいろんなほかの価値観なんてが全部とんじゃったわけじゃない。
👩うんうん。しかも、何かに自分を預けてしまうと、そこから離れることもできなくなるから。その、なに、それは抜けるとかね、その脱退するみたいなことだけではなくて、思考がもう自由ではなくなってしまうから、それは自分だけじゃなくて、自分が体重を預けているだけではなくて、その外的なね、ほかの外からの要因もすごくあるんだろうけれど、この話をすると、うーんちょっとね、作品の中でということから離れてしまうといろんなことを考えてしまうじゃないですか。このことって。
👨そうですね。
👩それこそ多様性ということ、今は多様性の社会と言われているけれど、それがすぐにわかるものではなく、わからないことがいっぱいである状態である!という今がある!!というのと同じというか、しらない世界だから。いえなくなりますよね。わからないことに踏み込んでっ!はみたいな。
👨いやだから、その中庸であるとか、その中間でふわふわ浮いて、なんか一見その価値観に縛られないで生きるって実はものすごくしんどいことではあるのよね。
👩うん、そうですね。中庸でありたいとはとても思うけれど、とても難しい、うん、そうそううまくいかない。
👨だからたとえば、なにかきれいなものを見たときに、自分が綺麗だからきれいだっていうのって、実は結構勇気がいったりするのね、
👩いりますね、わかるわかる。あの、面白いものとかもそうじゃないですか。
👨そう。
👩よくあるけれど、SNSが凄く発達しているじゃないですか。今ね。携帯開けば全部見えるけれど、自分が面白いと思ったもの、その思ったことは本当なのに、でも、面白くなかったみたいなのが大多数の意見だと、面白かったっていえなくなっちゃったりとか、怖くなってね。
👨そうそう。っていうかすごく難しくて、自分にとってそれは絶対綺麗なものだっていうその絶対を、なんか信じられなくなってしまうようなところもあるんだよね。
👩そうですねー。うん。
👨その、自分の中では常に強さを持っていて、だけどそれは、誰にも影響されるものではなくて自分の価値観だっていうのはものすごく難しくて、
👩うん、難しいね。
👨だから、それが本当にできたのって歴史上でキリストだけかもしれない。
👩そうなのかなぁ、そうなのかな。わかんない、それは、そうかな、私はそれが・・。
👨いや、私が知っている範囲でよ。もっと別にもしかしたら仏様もそうだったかもしれないし、モハメットもそうだったかもしれなけれどさ。
👩なんかそのさ、それを貫けた人は確かに物凄く少ないと思うけれど、貫かないまでも、その戦ってきた人っていうのはいっぱい居るんじゃないかと思うんですよ。それを、なんかね。
👨そうなんですよ。でも、自分がそうやって例えば今、例えばある絵を見たときに、なんか100人が吹き出したり馬鹿にしたりしても自分が綺麗なものが本当に綺麗かっていえるかっていうと、思うことは自由だからすごく思うのだろうけれど、それを表現できるかっていうと、まだけっこう勇気がいったりするのね。
👩そうですね。あと、表現するには、あの・・、知識がいるんよね。うん、その無知ではできないんだなっていうのは凄く思う。なんか、これがこうで、自分が、その、面白いって思ったものを言語化するためには、勉強がとても味方をしてくれるというか。足りなさをね、日々感じます。
👨たとえば聖書の中でキリストがこう言ったってなったらキリスト教を信じる人のなかでは絶対な訳じゃない。
👩そうですね。
👨だけど、なんかそれって人生を生きるのには、こんなことを言ったら天罰を喰らうかもしれないけれど。私はなんかいやだと思うのね。
👩ほうほうほう。
👨やっぱり、なんていうの、自分の中でちゃんと葛藤したいと思うんですよ。
👩うんうん、
👨だから、それが結局、物凄くタイトな世界ではそれがもっと内にはいっていくこともできるし、そういう意味では日本って凄く幸せなんだろうけれど、でも幸せであったとしてもやっぱりゼロにはならないから、そういうのって。
👩ああ、そうですね。
👨結局は、自分がどれだけ強いかってことなのかなぁっていうのはいつも思います。
👩うん。なんか、『2020』はそれで言うと、こう、なんだろうね、あれ。凄かったねって思うんですよ。あの、いろんな舞台があって、その空間、見ている空間のなかでものすごくいろんなものをもらって、共有したこと、共有できたことからもらう。いろんなものをもらいますけれどね、舞台を観ると、『2020』はね、本当に私は小説を読むのが好きですが、ほんと小説を読んだ後の残り方なんですよ、私にとっては。それがしかも熱をもって呼吸をしているものが目の前であったから、なんかその、なんだろうな、こういう言い方はちょっと違うかもしれないけれど、めちゃくちゃ贅沢な時間だったんですよ。
👨ああ、
👩うん。なんか熱とかさ、感情を込めている舞台だったから、みんながね、で、最後に出てくる。溢れてくる。だけど、ばぁっと発散するかのように出すみたいなのはほぼなくて、もう押し込めて押し込めてって言う、みんながみんな心のなかと表とは違うことを考えているのだろうっていう、、多くの人がいろんなものを持っているっていう中で・・・ちょっと待ってくださいね、でてこない・・。みんな込めているからこそ、より雄弁に語ってくるじゃないけれど、出てきているものが見えて。小説を読んでいるような残り方はもちろんしているんだけれど、そこにね、その熱というよりは想いみたいな、ひとりひとりの重さがのってより贅沢になっているというか。・・・重さが乗ったって言う感じですね。自分だけの頭じゃなくて外からの重さがのったことで・・。小説って自分で見て頭の中、私は頭の中で人が動いていくんだけれど、世界が広がっていくんだけれど、頭の中で。それが舞台になったことで、自分では出てこないような重さをもってプレゼントしてもらった感じがしている。
👨私が観た感覚としては、なんだろ、これはものすごくあからさまだなと思ったのね。
👩ふんふん。
👨もう当然にそういう構造っていうのはあるんだけれど、それをなんか、そこのところでみんな想いとかは当然にあって、それも、演劇っていうか舞台の上では全部作り込まれてはいくんだけれど、でもそのベースにある真理というかこうなるんですよっていう、世界っていうのはこうやって、こういう構造で動いているんですよみたいなところがすごくあからさまな気がしたのね。
👩うん。
👨その枠ができちゃったっていうのをちゃんと見せてもらうっていうことが、で、枠をそうやって見ちゃった以上は何をやっても結局、ある意味枠をどんどん際立たせていくに過ぎないから、
👩うんうん、なるほど。
👨もしかしたら、私たちがいままでに見えていなかったそういう構造っていうのをあからさまに出したから、だから、なんか凄く冷徹な感じもしたし、ある意味、でもそうなんだなっていう風に思ったし。で、確かに世界って言うのはいろんなニュースがあったり、いろんな動きがあったりという風なことにはなっているけれど、実はそういう構造のなかで定められたがごとくに動いているのかもしれないなとも思ったし。だからその中で結局、定めの中でも自由にいるのはなんなのだろうなっていうのは考えたのね
👩そうですね。今不自由だからね。ただでさえね。あの、普段から生きていれば、完全に自由でいるためには戦いが必要でね、コロナがなくてもだ、でも今はコロナというものにも縛られて、うーん、なんだろなぁ。
👨あともうひとつは、昔ね、誰が言っていたのだっけなぁ。赤塚行雄さんていう評論家の方が言っていたのかなぁ。父権主義と母権主義ていうのがあるんですよ。で、それは交代にやってきて、で、父権主義という時にはいろんなルールとか規則のたてまえのなかでみんなが生きていくことこそ正しくて、要はその父親の権威とか価値観が生きる社会があって。で、もうひとつは母権主義って母親の許す自由、「まあまあいいじゃない、誰々ちゃんがやることだから」みたいな。で、たとえば大正ロマンが終わって第二次世界大戦まではずっとくにっていうものがあって国家というものが私人に優先して、お国のために死ぬとかそういうルールの中で命を捧げることがとても重要な時期があったのだけれど、それが解き放たれてモラルというか社会や家庭でのタブーも次第に崩れてなにをやっても自由だっていう時期にだんだん歩み出したわけですよ。きっと。だけどみんながその自由に耐えられるかっていうと、多くの人は耐えられなかったし、現実には。
👩そうね。
👨逆にそれがどんどん破壊されつくしていくと、こんどは人々はルールを求めるようにもなったし。で、そうやって波を繰り返していくのが社会だとすれば、たとえば今の中国のいろんなこととか、もっと前であればイスラム原理主義とか、なんかそういった自由に耐えられなくなった人たちのよりどころみたいなものができてどんどん世界が窮屈になって・・。今そっちの方に歩み始めている時期だとも思うのね。
舞台の感想ということからすると、そこのところが今まで・・、まっすぐにそこに向き合って描いたお芝居っていうのをあんまり観ていなかった、みたことがなかったから。
👩ああ、確かにそうかもしれない・。そうかもしれないですね。その、浮き彫りになったところはあるんだな、きっと。その・・、今まで見なきゃ見えなかったしっていうか、みんな多かれ少なかれあるけれど、それは自分の話だからしないみたいなことが、大きなこの世界的なことが起きてってなったときに見えるようになったんですよね。もう具体的にね、そう実・・害っていっていいかわかなないけれど、まあまあ実害をもってね、
👨世界的な動きをね
👩そうそう、世界的って言うか今の自分たちの生活にもね、具体的なものになったからこそ、考え、前々から考えていたけれどそれが見えるものになっている、みんなの共通認識になりみたいなところはありますね、きっとね。
👨たとえば人を好きになるとか愛するとかを描いたりとか、たとえば貧しさを描いたり夢を描いたりとかというのと同じように、同じレベルの同じ語り口で、結局あのお芝居っていうのはそうやってひとつの構造みたいなものっていうのを描き出したのだと思うのね。
👩うんうん・・。そうか。
👨だけど、どんなお芝居だって多分、全員が納得して良いお芝居だっていうものはなかなか作れないので
👩だから今は・・・。そうか、なんかさ、世界を映すというじゃないですか、演劇って。もうまさしくそうですよね。そこから世界が変わってそこから生まれた演劇も違うものが見えるようになっているのが凄いなっておもう。なんかほんと、なんかね、なんて言っていいか分からなくなりますね。その、凄いものを観ているなって言う気もとてもするし。
こうなのかって、そのさ、なんとなくわからなくってさ、大きな変化があったわけではなかったから、私たちが生きているあいだはね。例えるのもあれだけれど、戦争があるわけでもなく、で、大きなことはあったけど、あったけど、いっぱいあったけど、地震だったり原発だったりいろいろあって、その時にはその時でやっぱり演劇は変わっていたし、その、今までいたことのないものが見えていて。でもいろんな考え方もあって、状況にもよるしね、その、みんながみんな同じような経験として持っているのかといわれるといやっていう感じだったものが、これだけ同じ状況にみんながぶち込まれているわけだから。
👨そうだね。
👩そこから見えてくるものっていうのは、ありますよね。いや、しかもね、ちょっと話に聞いたところによるとですよ、いやもう、そうだろうなって想像はしてたけれどね、まあしんどかったらしいですよ、この作品を作るの。本当に疲れたっていう話を聞きましたよ。
👨それは、作家にとってということ?、それとも俳優にとってということ?
👩私はキャストさんから聞いたので。もうへとへとだったという話を聞きました。いやそうですよね、あれ、しかもそれが余り伝わらないだろうなとも思って。
👨いや、役者さんってさ、多分観る側を説得するときに、感情っていうのをちゃんとその内に作ってこちら側に渡してくれるじゃない。だけどあれって、逆にそこのところをなんかものすごく、異質なものに染めて渡してもらえないとこちらは多分理解できなかったと思うのね。
👩込めているものの量が半端じゃないからっていうところかなって思っていました。いや、それだけじゃないけどさ。もう団体じゃないですか。みんなでひとつの、この宗教の場を作らなくてはいけないから。もちろん異質なもの、結果でね、私にとってはですよ、結果で、その中にいる人は、そしてそこに疑問を抱いていない人はね、普通なのだと思うの、その人たちにとってそれは。だけど、そうじゃない人たちを見ていて、そうじゃない人たちがいっぱいいて。その舞台の中で、見ていてね。みんな、みんな外側は同じなのだけれど、もう物凄く抱えてこういたり、たとえば辛かったり悲しかったり、それこそ愛していたりとかね、そういうのを出せない、出してはならない。外側に出すその、なんだろ、どんどんそれが口にも出せず態度にも出せず、自分の頭や心だけで、こうなんだろ、渦巻いていくみたいな。それ・・、どの舞台っていうか人間やるのは多かれ少なかれそれはあるけれど、それが尋常じゃない。その抑圧のされ方が尋常じゃないっていうのが・・、自分がやることを考えたらふわぁぁってなる。あはは、ふわぁぁって。
👨それは役者としてね。
👩なる。もう凄かった、だから。岡野さんとかもうそういう人なのかなって、他の舞台もねもちろん観たことありますし、もちろん観たこともあって、で、『2020』の彼のような人ではないのは知っているのに、もうそういう人がそこにいるんだよね。いや、凄い。もう浮かんでこない、観ているときに。そういう人がいるっていう。強かった、弱い子なのに強かった。あと私とおじさんが観た後で少し話したときにひとつ違いがあるとすれば、あの彼女でしたよね。役名はなんでしたっけ、あの、「くろみ」ちゃん。
👨ああ、はいはい。
👩凄くね、異質な。だけどおじさんがいっていたのはあれですよね、彼女がいることで演劇として観ることができたって言っていた。
👨あ、そうですね。
👩何層構造にもなっている感じがね、あれみたいだなぁって思った。あの全体じゃないよ。全体じゃないんだけれど、インターステラって言うSFの映画があるんだけれど。なんだろうな、時空を超えて本を動かす話なんだけど、あはは、なんか旨く言えないけれど、あの、世界の見え方が変わるというか、その、どこから観ているのかが、見え方が変わる映画なんですよ。3次元とか4次元とか2次元とか、ど、どうゆう?みたいな。自分の立っている、観ている、立っていてその作品を観ているときに、どこにいるのかわからなくなるような印象をうけているんですけれど。好きなんですけれど、なんかね、それに近いものを感じた。あの、特に最後の岡野さんの役、主人公の男性のところに演劇としてやってきて、その、話すシーンがあるんですよね。話すシーンがあるんですけれど、そこはほんと自分が今立っている場所が今どこなんだろうっていうような、なんかこう、凄い俯瞰でみているような、でもすごく内側にいるような、それこそなんかこれが演劇になった瞬間みたいなのが見えてふわっとなりましたね。わくわくした。
👨こと芸術というものはさ、偉そうな言い方をしちゃうとね、たとえば、もともと絵っていうものをたとえば観たときに、そこには温度もなにもないわけじゃない。だけど、それを観ているときに、観ている側の内側には温度が生まれるじゃない、たとえば。それとか季節がやってくるじゃない。
👩ふんふん
👨そうやって、なにかの表現する方が、観る側にとって、受け取る側にとってのなにかのそういうふうな、例えば元々がたとえば絵だったらそれは絵の具だよね。一番ベースにあるのは。でも、そこのところに表現が重なることによって、観る側は全然別の感覚とかそういうもののなかで、それを観ることができるようになるわけ。
👩うん。
👨で、それが、そうやってそこのところに感覚が昇華していくのが、多分芸術だって私は思っているのね。で、同じような話をあのお芝居に当てると、そこにあるのは台詞であり物語なんだけれど、終わって受けたものっていうのは、・・おっしゃるとおりなんですよ、そのもっと違うそういう風ななんか立体的な構造みたいなもの、あるいはそこの中にいることの感覚、だったりするわけしゃないですか。多分それは藤田さんが元々感じていたものを一旦演劇というものに落としてまた渡してくれたようにも思うのだけれど、それはやっぱりあのお芝居がそれだけ優れていたんだろうなって。だから・・、良いお芝居って観たとおりのストーリーではないんですよ、私にとって。ストーリーはもちろんあるのだけれど、そこの中でどういう温度で、どういう感情で、どういうふうな、なんていうの肌触りで降ってくるかっていうところで楽しんだりとかもするわけじゃない?
👩ああ、なるほど。だから、そのくろみちゃんの存在が多分大きいんですね。おじさんのなかで。
👨そう。
👩うん、私は小説を読むみたいに存在する彼らの物語のめり込んでいたから、そうやってみると、ひとつ異質の存在ではあるからずっと。入り込もうとすると、なんだろうな、言葉を怖がらずにいうなれば、こう入り込ませないんですよね。邪魔をしてくる。でも、だから、「うんっ」て、もっと入らせて欲しいと私は正直言うと思ったんですけれど、でも、後半のね、そうであるっていうことが分かった時に、すごく腑にも落ちていたし、あの、なんだろうな、異質でありつづけるけど、そのどちらにも干渉しているけれど干渉していないみたいなその感じは凄いなぁって。あれって誰でもできることではないじゃないですか。凄い役者さんだなぁって。わあ、凄いなぁって、うらやましいと思う人だよなって、思ったなぁ。最初の方ね、見方だからねそして。その、たとえばさ、表現だったりとかいう形でそれが邪魔であるということではなく、これは完全に私の見方で、好みの見方をするときにそうであったというだけの話で、やっぱり必要不可欠な存在だったしね。だからこその驚きだったりとか、その後半のね、だから演劇の話であるっていうその、確立させたっていうところはもちろんあるのですよ。なんかいろんなことを考えているね、終わってからも。いい舞台を観たなっておもっているよ。その、前の舞台もそうだけれど。いくつかっていうか、最近観た舞台いろいろ思うことができて嬉しいな、幸せだなっておもっているよ。いや、まとまらないよ。だってまだまとまっていないんだもの、感想が。凄いことよ。
👨いや、まとまらなくてもよくて、多分いろんなものを出して・・。多分こういうのってさ、けっこうなんかね、3~4年ぐらいしてから思い出して効いてきたりするんですよ。
👩ああ、そうね。それってさ、いいよね。そういう舞台をやりたいなって思うもの。
👨ああ、なるほど。
👩なにかの時にふっと思い出して、ああ、あのときの舞台のあれはこれかもしれないとかさ。なんかそれは人生の見え方を少し、その人の人生を少し変えているということだと思うんですよ。
👨うん。あるいは社会の方が変わったときに、始めて気がつくことがあるような気もするのね。、多分。
👩うん。そうですね。いやぁ面白かったですね、うふふふ。ほんとに。本当に面白かった。いい舞台を観たなって思う。
👨うん。あとたまたま一緒に舞台を観ることができたのは本当に幸せで、
👩いやぁ、本当ですね。終わった後すぐに話したい気持ちもあったけれど、なにせぎりぎりで・・。遅かったんですよね。
👨そうそう。
👩めちゃ長いし、終わる時間もギリだしみたいな。10時超えてもう帰りなさいみなさんみたいな感じだったから。
👨東京都にいる人はやっぱり早くおうちに帰ってかえってこもらなければいけませんよ、みたいな。
👩そうそうそう、しかも迷惑がかかっちゃうからね、団体にも。それが帰りにうつったのにここでうつったんじゃないかと思われちゃったら公演にもかかわるから。責任が重いのよ、観る側もね。やる側ももちろんだけれど観る側もね。大変な世界だよ
👨そうそう。まあ、たとえば木ノ下歌舞伎みたいに、本当に物語があってその物語のおもしろさっていうのも演劇だし、だけど、演劇って言うのはそういうふうな自由度っていうのが凄く高いわけじゃない。
👩うん、そうですね。
👨だから、そういう意味では非常にやっぱり優れた表現方法なのだろうなとは思うよね。
👩うん。いやぁなんかまた話す気がしますね、『2020』のことは、きっと。
👨いやぁねぇ、一周回ってね、なにかを話しているときに戻ってくるんだよ、きっと。
👩ああ、出てくる。きっと出てくるとおもうな。またその時にも、楽しみましょう。
👨まあ、時間も過ぎたので、今日はこのくらいにしておきますか。
👩はい、そうしましょう。
👨はい、ではそういうことで、演劇のおじさんと
👩おねえさんでした。おやすみなさい。
👨おやすみなさい。
👩みなさま、お体に気をつけて。
👨コロナがまだまだ大変ですけれど、頑張って生きましょうね。
👩生き抜きましょう!ではでは。

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肋骨蜜柑同好会第14回
『2020』

2020年12月3日(木)~12月13日(日) @サンモールスタジオ

脚本・演出
フジタタイセイ
出演
嶋谷佳恵(劇団肋骨蜜柑同好会)
藤本悠希(劇団肋骨蜜柑同好会)
室田渓人(劇団肋骨蜜柑同好会)
森かなみ(劇団肋骨蜜柑同好会)

アンディ本山(ハンバーグらぁめん)
池内理紗(ドルチェスター)
海田眞佑(劇団ウミダ)
岡野康弘(Mrs.fictions)
神野剛志
梢栄(劇26.25団)
さいとう篤史(ジョナサンズ)
佐々木なふみ
進藤則夫(帰ってきたゑびす)
永田佑衣
宝保里実(コンプソンズ)
丸本陽子
吉田覚

フジタタイセイ(劇団肋骨蜜柑同好会)

観劇日 2020年12月6日 夜

ー公演情報については劇団肋骨蜜柑同好会のHPを転載いたしました。
転載に問題等ございましたらご連絡を賜りたく存じます=


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演劇のおじさんとおねえさん
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