お経は聞いても意味がわからない、とご住職のお説教
「お寺でお経をあげておいてくれという人が多い。聞いても意味がわからないのでお経をあげるのが目的ではないのですが」
という話からはじまった。法事でのご住職さんのお説教です。
「私もお酒は嫌いなほうじゃありません」
コロナで飲み屋にいけなくなり、近くの公園で集まって酒を飲んでいる人をみかける。気持ちはわかるが今は辛抱、自覚してすごすしかない。
自覚の覚は「さとる」という意味、仏教では「悟る」という。
唯一悟りを開いたのがお釈迦様、他には誰も居ない。
彼のことばを弟子が古いインド語で書いて経典とした。それを玄奘三蔵法師が中国に持ち帰って漢字に当てはめた。翻訳したのもあれば、そのままインド語の音を漢字にしたものもある。
それが日本に渡ってきた。大和ことばにせず、そのままで音を読んだ。当時の漢字の読みは呉音、今のとはちがう。口に出して唱えることがありがたいことだということで広まったが、聞いて意味がわかる人はいない。私もわからない。聖書やコーランとは大違いだ。
法事は死んだ人に、そんなお経をあげるのが目的ではない。生きている人が、お盆や正月に久しぶりに顔をあわせ、行事をすませたあと食事をしながらお互いの話をするのが目的だ。なのに、コロナでそうもいかなくなった、と。
そうなんです。数少なく姉妹親戚が集まってのお寺での法事、近況報告もそこそこに終われば、
「コロナが明けたら、また今度ね」
と食事もせず、それぞれに帰る。
ご住職のいう「法事」ではありませんでした。