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50年ぶりのミナマタ
わたしが知ったのは1970年代だった。公害の原点ともいわれる「ミナマタ」、本を読み、写真も見た。当時、こころにミナマタが棲みついた。でも、あれから50年、どこかにおき忘れていた水俣を初めて訪れた。
高校生にとって、ミナマタ情報は衝撃的なものだった。原因が工場排水だと知って、この日本で何が起こっているのか、こんなことはあってはいけないと進路を「化学」に決めた。本を読み、写真を見、講演も聴いた。けれども高校生にとって水俣は遠く、その後も現場を見ることはかなわなかった。
ミナマタだけじゃなく、日本のいたるところに公害問題があった時代。環境庁もまだなく、厚生省の一部門が担当していた。環境化学という先端的な名にひかれて研究室を選んだが、就職にはほとんど影響せず、一般企業にはいって時間が過ぎた。
百間港がポイントだった。そこにチッソ水俣工場の排水口があったという。戦後からすでに、港に係留した船にはカキが付着せず、そのうち魚も浮かぶようになった。今回見たかったのがここだった。
娘と家人が人気歌手の追っかけで博多に行くという。それには興味はないが、チャンスとばかり同行して現地は別行動。いつものパターンだ。水俣へは川内から肥薩おれんじ鉄道に乗った。のどかな海岸線をひた走って、水俣駅に降り立つと目の前がJNCつまりチッソの工場だった。
あらかじめ文献には目をとおしてあった。先代は日本窒素肥料、戦前のコンツェルンともいうべき化学会社、水俣工場のアセトアルデヒド酢酸工程でつかう水銀が垂れ流された。
地図がついていた。1965年測量の2万5千分の1をもとに作成と付記されている。工場と百間港は、地図では200mほど、至近である。
駅から工場に沿った道を歩いた。200mどころじゃない、行けども海はない。工場横が高台になっているので道を登り、見晴らしのよいところから眺めた。海ははるかに先、ケータイ地図とくらべると、もともとの水俣湾がほとんどが埋め立てられていた。
いつなのかは知らない。百間ポンプ場をはさんで細い水路が残されているが、ほとんどがエコパーク水俣と、その名を変えた。これが50年ぶりのミナマタだった。