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「年賀状仕舞い」のこころ ①友人絞り込みのリスクはとれない

時期ずれの話で恐縮ですが、「今年で年賀状仕舞い」というご挨拶をいただくことが増えてきました。自分の年齢から推して、おつきあいの方々も似たようなもの。面倒になったのでしょうか。はたまた、世間からご縁を切りたいのでしょうか。

年に一度の近況報告。子供が小さいときは、写真とともにその成長を話題にするのが多かったようです。でも自分の子供じゃないので、写真を何度も見やることはなくその時だけのもの。投げやられるのが嫌で、わたしはやりませんでした。

一時期はやったのが、1年間の出来事を細かい字で空間をびっしり埋めるというもの。わたしも数回やりましたが、考えてみればこれもブログ調で他人事。書く方は一所懸命でも、見る方はどうでもよろしい。

型通りの印刷に、「会いたいですね」「また飲みに行きましょう」など手書き挨拶。特にお知らせすることもなく、一過性で心が感じられません。

そう、年賀状を書くことに対してはネガティブなのです。わたしも「年賀状仕舞い」を毎年暮れになると思い立つのですが、「まだ、生き(活き)てます」の連絡ぐらいはした方がいいかと、思いとどまっている次第です。

この話を同僚にしたところ、
「年賀状仕舞いの挨拶をせず、そのまま出さないのがいいかも」
「音信不通になると心配するんじゃない?」
「それがねらい目ですよ」

音信がなく、そのあと心配して連絡をくれるのが本当の友人。絞り込みの方法にいいのではという。

そうかもしれません。内容のない、義理年賀状を書くのは面倒なだけですから。

でも、誰からも連絡がこなかったらそれも困ります。このリスク、踏み切れませんね。