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石造りの迷宮 最終話

      

     最終話


 数日後、君はいつものように五階のインテリアコーナーのバスタブに浸かり、薄紫の湯を両手で掬って顔を濡らす。最近は入浴剤としてラベンダーの香りのするものを混ぜている。その甘い香りが鼻腔を刺激し、うっとりとした気分になる。
 店長に抜擢された頃の戸惑いは徐々に薄れ、それは責任ある立場を任されたという満足感と立ち仕事ならではのふくらはぎに感じる心地良い疲労感に取って代わる。今回も子どもに叩かれたり、おんぶをせがまれたりしたが、それもお客様に懐かれていると思えば何でもない。
 バスタブを囲むシャワーカーテンの向こうで「ミャア」という仔猫の鳴き声がした。それで、去り難い暖かで心地良い楽園から立ち上がろうと決意する。君は、このフロアで購入したタオル地の厚いバスローブを纏って仔猫を探す。しかし、カーテンを捲っても居なかった。
 テーブルの下にでも隠れたか……、そう思って先に食事のあるテーブルに据えつけたソファに飛び込むように身体を投げ出す。湯上がりでほてった熱を感じながら、後ろを向くと背もたれの向こうに金色の髪の女性がワイングラスを二つ持って立っているのが見えるだろう。金色でふわりと膨らんだ髪に丸い顔の彼女は、不安と期待の入り混じったような目で君を捉える。
「グラス、ここのを使っても本当に良かったですか?」
 彼女は、君に促されてソファに座りながら尋ねる。
「ええ、それは展示見本だから、朝までに洗っておけばいいですよ」
 この店で覚えたルールらしきものを丁寧に説明しようと努める。彼女はほっと胸を撫で下ろす。
「ここに初めて勤めた日から、どうしてもこの百貨店から帰れなくて困っていたんですよ。五階に泊まれる設備が揃っているなんて。良かった、礼田さんがいてくれて。礼田さんはどのくらい居るんですか? 長く住んでます?」
 それには曖昧に頷いてはっきりとは答えない。代わりにテーブルの上の赤ワインを手にする。
「これ、奮発しちゃった。ワイン飲める? 他の方が良かった?」
 自分でも猫撫で声だと気づき、少し嫌悪感を覚える。彼女は、首を小さく振って微笑む。その時、金色の髪が軽やかに揺れる。
「いいえ、好きですよ」
「敬語はやめようか」
「ええ、嬉しいわ」
 彼女は顔をほんのり赤らめて微笑む。
 彼女からテーブルへと視線を移す。そこにはワインの他に地下一階で買ってきたフレンチのおかずが皿に並べられている。いつの間にか黒毛で足の短い猫が上っていて、サーモンの檸檬ソースのソテーに鼻を近づけている。
「こらこら、コトラ。駄目だよ、これは僕達の食事」
 手を鼻先に近づけると、猫はスンスンと鼻を動かし、ペロリと君の指を舐める。それを見て彼女は嬌声をあげる。
「可愛い! コトラって言うんですね。すごく懐いてる……。いつから飼っているんです……飼っているの?」
 慌てて敬語を言い直し笑っている彼女に、捕まえた仔猫をそっと差し出しながら答える。
「一昨日からだよ。新しくペットショップに入ってきた子でさ。ほら、仔猫って毛が柔らかいんだよ」
 彼女は猫を触ったことがないのか、震える指をゆっくりと伸ばし、猫の背中に触れる。
「本当だあ。コトラちゃん、私が今日からママですよう」
 そう話しかけながら、君の方を少しだけ見て、また視線を猫に戻す。その目に蠱惑されたように感じると、少しだけ自分の体を彼女の方へにじり寄せて尋ねる。
「沼田さん。いつからこの百貨店に居るの?」
 彼女は少しだけ失望したように目を伏せるが、すぐに君を見つめて呆れたように笑う。
「やだあ、礼田さん覚えてないの? ここで事故があった時、すごく混雑して大変だったじゃないですか。あの日が初日だったんですよ。あの日から閉じ込められて帰れなくなるし……」
 君は、心の底に沈殿していた痛みが蘇りかけるのを、彼女の目をじっと見つめることで封じ込める。その目を見ているうちに質問を投げかけようかと考える。帰らなくても大丈夫? 家族は……? しかし、それをすぐに引っ込めることにする。きっと、ここに居るということはそういう意味なのだろう、と。
 何も話さないでいると、彼女が問いを発してきた。
「ねえねえ、どうして黒猫なのにコトラって名前にしたの?」
 君はしばらく思案してから口を開く。
「それはね、どんな猫もみんな『コトラ』だから」
「それ、答えになってないよ」
 彼女は手で自分を扇ぎながら、ケラケラと笑う。
「暑いね。ちょっと暖房効き過ぎかも。汗かいちゃった」
「入ってくれば? 食べないで待っているよ」
 君は、シャワーカーテンを指して言った。
「そうしようかな」
 彼女がグラスを手にしたまま立ち上がる。
「一度ね、お風呂の中でお酒飲んでみたかったの」
「よかったら、中で一緒に飲もうか?」
 ええ? 彼女は小さく声を上げてソファに膝をつき、君に顔を近づける。うっすらとした笑みを浮かべ、胡桃のような丸い瞳は君をじっと見つめている。
「酔ってます? 私、そんな女じゃないんだけどなあ」
 首をちょっとだけ傾けて言った言葉に、鼓動が一気に速くなる。彼女の笑みと言葉をどう解釈すべきか混乱が襲ってくる。
「いや……、変な意味じゃなくて」
 言い訳にもならない言い訳。沼田は目を細めて、口元に綺麗なカーブを作っている。
「変な意味、でしょ?」
 膝立ちしたまま彼女は、目を閉じる。君はその腰にそっと手を回し、屈み込んでくるようなその唇にキスをする。ワインの芳醇な香りが伝わってくる。互いの体温が伝わって唇を離すとき、君はこう言うだろう。
 
「好きだよ」と。
                  (了)

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